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私とフランス

彼と出会うまでにフランスにはあまり縁がないと思っていた。だけど、思い返してみると色々あったことに気づいたときがありました。そう考えるとやはり何かの縁があったのかな?とも思わされます。

まずはじめにフランスと私の関わりがあったのは、大学1年生から3年生にかけての頃。私は高校生の時に初めて1ヶ月滞在したアメリカに住みたい!とアメリカの大学に行くのが夢だったんです。ただ学費が日本の数倍もするので、親には4年は難しいけど短大留学だったらサポートできるよと言われました。その時何故か私は短大じゃ意味がないんだと思いこんでいて、結局日本の大学に通って貯金→3年生でアメリカの大学に編入しようという計画を立てました。私の学科では第2言語のクラスが必修科目になっており、フランス語、スペイン語、中国語の3つから選べるシステムでした。残念ながらどの国にも興味がなく、消去法で取ることに決めたのがフランス語でした。しかしフラ語の先生はフランス人ではなく中国人だったのです。

今考えるととってもレイシストな考えですが(!!)なんで中国人からフランス語を学ばにゃいかんのかーい!と若くて擦れていた私は思ってしまいました。頑固な私はその考えがしばらく抜けなかったのですね。そしてguillibleな私は、周りのクラスメイトの「適当にやってれば単位取れるよ」という言葉を信じてあまり勉強をしませんでした。発音も難しいし単語も複雑。ポワソンとポワゾンの点々と丸で全く意味が異なってしまう難しい外国語。結局私がちゃんと言えたのはJe m'appelle Anna(私の名前はあんなです)という初歩の初歩の1文だけ。必修は2年間でしたがC判定で結局3年目も取らなければ行けないという恥ずかしい思いをしました。今思えば、あのときにちゃんとフラ語を勉強していたら、今頃彼とフランス語でもっと話せていたのかもしれないですね。

2つ目のフランスとのつながり。
結局英語の勉強も貯金も追いつかず、アメリカに来るのは日本の大学を卒業した1年後になったのですが、無事アメリカに大学院留学をすることができ、その後職にも恵まれて3年間フルタイムでアメリカで働いていました。当時20代後半、このまま今の仕事でいいのかなとか、こんな田舎町でずっと住みたいのかななど、少しずつ疑問を持ち始めたのです。その時、当時付き合っていたアメリカ人の彼が驚きのタイミングでプロポーズ。私の考えていたことを知ってそれでもいいと言ってくれていたので、1年間ほどアメリカ以外の海外に住んで経験を積んで、またアメリカに帰ってこようという計画を立てました(その後この彼とは数カ月後破局してしまいましたが)。その時に一番興味があった国がイタリア。なんとなーく素敵な国かなと思って、選んだのですが残念ながらイタリアにはワーホリ制度がなかったのです。ワーホリ以外の方法で働きながらイタリアに住む方法が当時わからず、アメリカではビザが複雑だからイタリアもそうかも知れないなと思った私は、欧州にはワーホリのある国から入って、そことイタリアと半々で暮らすのもいいなと思ったのです。なので、隣国のフランス(これもまたなんとなく、いつもなんとなくで選んでしまってごめんよフランス)にすることにしたのです。

欧州に行く前に一度日本に帰り働きながらワーホリビザの手続をはじめました。エッセイを書いたり書類を準備し、もうすぐビザが取れる!となったころ、私はハワイ出身の人と出会ってしまった。とてもいい人で良い付き合いをしていたものの、アメリカ以外の海外に住んでみたい欲が強かったので、その人に一緒にフランスに行かない?と言ってみましたが断られてしまいました。そして当時日本で働いていた仕事がとてもおもしろくなってきたこともあり、もしかしたらこういう運命だったのかもしれないと、フランスへのワーホリビザを取りやめることにしたのです。

こんなふうにして結局フランスとは全く縁のなかった私ですが、初めてフランス語圏に行ったのは何年もあとに仕事で行ったニューカレドニア。そこで今の婚約者のフランス人の彼と会うとは思いもしなかったですから、人生というものは面白いものです。なんだか、3度目の正直みたいですね。


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