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反実在電脳少女についての唯物弁証法――博衣こよりをファックするたった一つの冴えたやり方――

ツァッキ

Opening Chapter:あとの祭り


  資本主義の終わりを見届けることがないまま俺たちはセカンド・サマー・オヴ・ラヴに突入して、ミシェル・ウエルベックがネオリベラリズムとセックスを彼にしてはいささか短絡的に紐づけたように誰とでもセックスできるようになってから十億年が過ぎた。夏の草原に佇む白いワンピースの「真実のお嫁さん」は別に誰でもよかったし、パチンコで万発出して行ったソープの女の子とカール・ハインツ・シュトックハウゼンやピエール・ブーレーズの話をすることが部屋に飾ってあるタバコのヤニで真っ黄色になった浅倉透のタペストリーを越えることだってあるかもしれない。結局のところ、終わりというのは各個人が今抱えている問題を問題としなくする一つの目処でしかない。マラソン選手があの電柱までは頑張ろう、と思い続けながら走り続けるのと一緒である。みんなで気持ちいい夢に浸っていよう。長寿のホドロフスキーは現実に帰れと言うが、自殺を選んだゴダールは想像力を欠く人々は現実に逃避すると映画の中で言っていた。どちらの方が美しいかを決めるのはあなた次第。いや、こういう言い方にももう飽きた。Z 世代である俺たちは二者択一の選択に倦み果てている。苛烈なリアルに耐えきれなくて、天国で黛冬優子と伊勢丹デートするために首を括るオタクがいても彼のことを俺たちは糾弾できないだろう。現実に安易に逃げ込まないように、インターネット越しにクィアなセックスを満喫する本当の愛を探す旅に俺たちは出発しないといけない。おにぎり持ったか OMSB、唐揚げ持ったか大谷能生、生も死も恋も革命も追い抜いて全ての道はローマに向かう。この半分有機農法、半分原子炉搭載のデロリアンに乗り遅れるな。アンドレ・ブルトンの言う炉心で自らを融かす愛はお前を待ってくれない。いつだって本物は生ものである。


  さて、しかし、俺たちが繰り出すフィールド、つまりディープ・ウェブを含むインターネットは見渡してみるとすっかり焼け野原である。もうなされるべきことは全て終わってしまって、あとはアディショナルタイムが無限に続くジジイのションベンのような世界が眼前に広がっているではないか。そう、資本主義、あるいはグローバリズム、あるいは公共性、あるいは SDGs、あるいはグレタ・トゥーンベリ、あるいは国境なき医師団、あるいは、あるいは、あるいは……というのは、それ自体がアポカリプスであり崩壊であって、それらが「終わる」のではなく、それらが「終わり」なのだ、ということを初めに言っておかなければならないだろう。時系列的な線分が途切れる終点ではなく、面積も長さも持たない点、ブラックホールとしてそれらの世界的な欺瞞というものは暴かれざるものとして暴かれるのである。資本主義の終わりを想像するよりも世界の終わりを想像する方がたやすい。自殺したマーク・フィッシャーはそう言ったらしい。俺は『資本主義リアリズム』を一ページも読んでないから知らないけど。しかしフィッシャーは資本主義が世界の終わりであること、つまり公立中学校のクラスに一人はいるこざかしいメスガキが自分が涼宮ハルヒではないと思い知るあの絶望について考えることはついになかった。世界はもう終わっているという絶望から全ては始まる。そしてそこにこそ本当の愛がある。始めよう、愛の言葉を。「時よ止まれ、そなたは美しい」と呼びかけるファウスト博士の如く、このどうしようもなくクソッタレな二十一世紀の欲望と死と絶望にラヴ・コールを囁こう。俺がこの短い論考で描き出さんとするものは、現代において醜い存在がいかに美しく死ぬかの政治的言説(マニフェスト)である。

1st Chapter:緩慢であることの誘惑


  映画を倍速で視聴したり本を速読したりする「ファスト消費」の罪は、何よりもまず文化の消費が耐え難く緩慢であることを軽視していることにある。速読や倍速視聴によって得られるものは話の筋といくつかの印象的なショットであり、文体やコンティニュイティといったものは余分なものとして捨象される。ジル・ドゥルーズが「何を構造主義として認めるか?(A quoi reconnait-on structuralism?)」の中でいみじくも語ったように、文体(figure)はそのものではないが構造の本質にかかわる。緩慢さを受け止めた先にあるのは虚構全体を貫くリズムであり、構造であり、それこそ西欧近代が培ってきた全体と部分の有機的なつながりを丸ごと感じることに他ならない。


  しかし、このいささかエスノセントリスムに偏りすぎた緩慢さの擁護は、本稿で中心として取り上げるバーチャル Youtuber(以下 、Vtuber)にも当てはまるだろうか。Vtuber が垂れ流しに垂れ流す膨大なアーカイヴに構造などないし、ましてや部分と全体などあろうはずもない。しかし、そこにあるのは免れ得ない緩慢であることの誘惑である。何故テオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』やタル・ベーラ『サタン・タンゴ』では寝てしまうのに、博衣こよりの五時間あるゲーム配信は観れてしまうのだろうか?いや、私はそんな文化的に頽落していない。Vtuber の配信などくだらなくて観る気も起きないし、アンゲロプロスやベーラの鮮やかで驚くべき映画の継起性こそ私を刺激してやまないのだ……こう言われる向きもあるだろう。しかし、繰り返すが俺たちは終わったところから始めなければならない。西欧近代の残骸と付き合うのはもうこりごりなのだ。文化を捨てよ。インターネットで青白い光を浴び、二次元の女で射精しろ。文化の堆積をありがたがっていては「まだ資本主義で消耗してるの?」だ。用意されている明日などない。あるのはただ、薄暗い部屋に転がっているオナニーが終わったあとのティッシュである。西欧近代をナンセンスで追い抜いた先に、俺たちだけのスピードがある。


  博衣こより、カバー株式会社が運営する Vtuber 事務所「ホロライブ」の五期生。ピンク色の髪で、半人半コヨーテ。高いキャンディボイスが特徴的だが、絶叫や長時間配信にも耐えうる強靭な声帯の持ち主。今回手術台に上がってもらうのはこの博衣こよりである。「配信モンスター」の異名を取る通り、配信を休む日はほとんどなく、「配信しかしていないので雑談のネタがない」と言うほどに彼女の配信に対する姿勢は一貫している。Vtuber は多くいるが、話をホロライブに限って言えばタイプはおおよそ二分できる。話に起承転結をつけてコンパクトにまとめるタイプ(宝鐘マリン、ラプラス・ダークネス、など)、雑談やゲームを延々と行うタイプ(尾丸ポルカ、戌神ころね、など)の二つだが、こよりは後者に当てはまる。彼女をホロライブの「緩慢さ」の象徴として手術台に挙げるにはいささかサンプルが過剰すぎる懸念はあるが、可能な限り抽象化してまとめてみよう。


  彼女の最大の特徴はゲーム配信、マインクラフト、雑談全てに言えることだが「抑揚のなさ」である。テンションは常に高く、声のトーンはどんなに配信時間が長くなっても一定で、話は立て板に水、金太郎飴のように(高いテンションとは裏腹に)どこから観ても同じなのが博衣こよりの配信である。この「どこから観ても同じ」性を俺たちはどのように受け止めるべきなのだろうか。西欧近代は確かに俺たちの後ろにあって、俺たちは目にもとまらぬスピードでそいつらを置いてこなくてはならない。しかし、こういった「対象の輪切り」にあって、西欧近代の知性ほど役立つものもない。以下、いくつかの言説を引用しながら、この緩慢かつ抑揚のない、ぶよぶよした何かとしての博衣こよりとそれを涎を垂らして白痴のように眺める俺たち=バチャ豚を偉大な知性に切り取ってもらおう。その先に、やがて明らかになるはずである資本主義のオルタナティヴ――六八年は終わっていないと今もなお言うつもりはないが――の先っちょの景色を見ることができれば、とりあえずの満足とすることにしよう。

 
  ジャン・ボードリヤールは、『シミュラークルとシミュレーション』(一九八四)における第一五章「残り」の中で、残余(レスト)とは引き算の結果余ったものではなく、二項対立を失効させるシミュラークル(実在と対立しないもう一つの現実を構成するファクター)であるとしている。残りはそこにかつてあったはずべきものを代理=表象するのではなく、残りそれ自体が意味である。


  つまり方向(…)は、もはや存在しないのだ。尊重すべき地点は、もはやない――実在より、より実在的な像に座を空け渡そうとして実在は消滅し、その反対に――残りは与えられた地点で、再び現われようとして裏返しになって消える。だが、その裏側が残りだった、など。(ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』竹原あき子訳、法政大学出版局、一九八四年、一八〇頁。)


  ボードリヤールは残りの概念を意味=方向の過剰=散逸(≒特異点の消失)と捉えることにより、例えばポール・ヴィリリオ的なゼロ距離と加速とは対置される意味=方向それ自体のナンセンスさ(あるいは、ある種の「ダルさ」)について語っている。博衣こよりの緩慢、平板、抑揚のなさはボードリヤール的に言えば残りそのものである。あるいはドゥルーズであれば特異点はセリーの移動と構造の働きによって差異的=微分的に決定されるので、残余それ自体が存在しないと言うかもしれない。しかし、ボードリヤールの慧眼はまさしくこの「裏返しになって消える、だが、その裏側が残りだった」という決定的に決定を欠いている、という欠如と無為=ナンセンスをエコノミーの観点から指摘したことである(後ろで、彼はバタイユの過剰と残りをなぞらえている)。博衣こよりが「助手くん(彼女のファンネーム)~!」と甘ったるい声でバチャ豚にテンダーに囁くとき、バチャ豚にとって博衣こよりは「何を観ても同じだが、これを観るしかない」というアンビヴァレンツが生じる。それは彼女/彼女のYoutube プラットフォームがつねにすでに退屈で、交換可能で、緩慢で、残りものでしかないからである。ボードリヤールはこうも言っている。「そして残り物すべて幻 想(ファンタスム)の中で無限に反復するよう定められている」(一八三頁)。博衣こよりは差異ある反復ではない。ただの無限の反復であり、何ものも異化せず、完全に閉じた円環である。自身が自身を記号化することに気が付かないまま、彼女は Youtube の中で微笑み続ける。ああ、かわいそうなバチャ豚たち!いや、幸福とも言えるのだろうか?答えを探してみようとしてみるのはいいが、恐らく現実のどこにも見当たらないだろう。博衣こよりというシミュラークルの前では全てが記号である。


  さて、俺たちはとりあえず問題設定を行うことには成功したようだ。インターネットがシミュラークルであることなんて自明なことのように思われるかもしれない。しかし、俺が言いたいことはそういうことではない。問題は、シミュラークルの中に沈む一粒の砂金のような愛をどのように擁護するかなのだ。俺たちは閉じた円環の中にいる博衣こよりをマジになって愛さないといけない。変なイントネーションで喋るこよりを、ゲームのお絵かきでヴァギナにしか見えない絵を描くこよりを、コラボ配信でダダ滑りするこよりを、俺たちは心の底から愛している。もしそれが嘘だったならば、このインセル出版の創立理念である「私たちの目標は、床のシミで黛冬優子を描くことである」というテーゼに根本から共感できていないということになる。そうこうする間に Wi-Fi に乗って飛んでいく愛は俺たちの遥か向こうを滑空していってしまう。追いつけ、追い越せ、さざめく恋の波間にキスをするまで、あと百マイル。真っ赤なカブリオレに飛び乗ってフリーウェイをブッ飛ばす。いや、俺たちの車は無敵のデロリアン、突っ込むぞ、博衣こよりのクリトリスに向かって。

2nd Chapter:Dirty Work


 先日訃報が報じられたアメリカの批評家、レオ・ベルサーニはアダム・フィリップスとの共著『親密性』(二〇一二)の「恥を知れ」という項の中で、ゲイ同士で行われるコンドームを用いないアナルファックを「ベアバッキング」と呼び、その存在論的なクィアの揺らぎについて語った。また、未邦訳文献「Ardent Masturbation」(二〇一一)では子が父を母から奪おうとするオナニーをエディプス・コンプレックスの亜種として位置付けた。俺がここでやや耳学問的に偏ったベルサーニについての知識をひけらかしたのは決して偶然ではない。彼が行ったクィア理論における精神分析と存在論的な位相の揺らぎの発見は、必ずしもゲイやレズビアン、トランスジェンダーに限った話題ではないのだ。それはオタクのオナニー、ひいては仮想空間に浮かぶ美少女のクリトリスをファックすることの有効な手立てとなりうる。

 
  博衣こよりに限らず Vtuber のクリトリスを想像するということは、安易に精神分析的なジャーゴンを使用することを許してもらえるのであれば女性の去勢コンプレックス(ペニス羨望)の反転、つまり男性オタクが自らのヴァギナを欲望するという倒錯の倒錯について論じることに他ならない。ペニスは男性にとって自明だが(ファルスがその限りではないというのは当たり前として)、ヴァギナは男性にとっても女性にとっても決して自明ではない。カトリーヌ・マラブーが『抹消された快楽』(二〇二一)でようやくクリトリスという「存在」に焦点を当てたものの、精神分析において常に問題になるのはペニスが「ない」、ヴァギナという「穴」、という欠如である。そのうえ、ヴァーチャル世界の向こう側にいる博衣こよりはそのシミュラークルという特性と「萌え」の振る舞いという矛盾によってあらかじめヴァギナは縫い付けられ、俺たちオタクの臭くて汚いペニスをそこにねじ込む余地はないように見える。pixiv で R18 イラスト、iwara で MMD を観ようが問題は同じである。むしろ、どうしようもなく遠ざかっていく幻影の輪郭だけが浮かび上がり、自分のペニスの汚さは一層際立つ。この縫い付けられ、二重化され、遠ざかっていくヴァギナにペニスを挿入し、ハイパーリアルなクリトリスを愛撫する方法はいかにして編み出すべきなのだろうか。


  二つほど手立てがある。一つは目に関わり、一つは性器に関わる。目の問題については、これまで手の届かなかった問題を VR ゴーグルの登場が一挙に解決してしまったことが挙げられる。VR 専用のアダルトビデオは驚くべき実在の手触りを再現し、視覚をある意味「騙す」ことについてはほぼ到達点と言える結果が出ている。『カスタムメイド』シリーズはそういった VR 産業が生み出した二次元アダルトコンテンツの最高峰と言うべきだろう。自分の好みの女の子を作成することができ、あまつさえその女の子と臨場感たっぷりのセックスができる。これに後述するディルドやオナホールといったセックストイの補助があれば、もはやリアルのセックスなどいらないという人が出てもおかしくないだろう(これについてはVtuber・マルドロールちゃん氏に個人的な敬意を捧げる)。性における視覚の進歩は、テクノロジーとセックスの目的と手段の関係をときに攪乱する。テクノロジーが進歩したからよりよいマスターベーションが可能になっているのか、よりよいマスターベーションを人が望むからテクノロジーが進歩するのか。性のシンギュラリティの加速は留まるところを知らない。

  
  性器の問題についてはセックストイを巡る系譜学的な問いが参照されるだろう。少し話を戻れば、俺たちの掲げるお題目は以下のようなものだった。つまり、「博衣こよりをどのようにしてファックするか?」である。それは単純に彼女の美麗なエロイラストをスマートフォンに表示しながらペニスを猛烈にしごけばいいというものではない。こよりとセックスしなければならないのだ。それは VR の問題でさえ辿り着けないハイパーリアルな性器を新たに創造することに他ならない。あるいは視点を変えて言えば、こよりにクリトリスを生やすことなのだ。身体の延長としての性器=セックストイの発明は、ポール・B・プレシアドによれば「戦時経済から労働経済への移行を示すもの」(ポール・B・プレシアド『カウンターセックス宣言』藤本一勇訳、法政大学出版局、二〇二二年、一三〇頁)であり、退役軍人の義手から発展して男性のペニスの代替物をなすディルドにその端を発している。ここだけ見れば、上述の VR における卵が先か鶏が先か(テクノロジー・オア・セックス)の議論においてテクノロジーによってセックスがもたらされたことの一例にすぎないかもしれないが、事態はそう単純ではない。エレクトロニクスの発明、つまり手で与えられない刺激を性器に与えるというブレイクスルーが、男性あるいは女性のマスターベーションをさらに攪乱する。「電化と機械化は、オナニー抑止技術によって剥奪された実用品をマスターベーションする手に与えた。女性の自慰行為者の手やヒステリー者のバイブレーターは、生殖器と非生殖的(さらには非有機的)な物体/器官とを接続しなおすセックス回路のまさに「スイッチ」として働く」(前掲書、一三三頁)。そう、俺たち――そう、お前もまさにそうなのだ――は既に博衣こよりを犯す手立てを持っている。Wi-Fi と光回線がその答えだ。確かにディルドという形で「女性の自慰行為者」だけが戦後のテクノロジーの発展の恩恵に浴しているかのように見えるが、全てが加速し距離はゼロになる Z 世代の我々はインターネットという器官なき身体を手にしている。「セックス回路」はもうオンになっている。つまり、画面の向こうの 反(アンチ)((非(ノン)ではなく))実在少女のクリトリスは、Youtube というプラットフォームにピロピロと露出され、彼女たちは都度絶頂しているのである。もう太く黒光りするディルドも、精巧なオナホールも必要ない。いわんや、お前の身体にていているその粗末なペニスやヴァギナさえ余計である。ボードリヤール的なファンタスムとシミュレーションとしてのセックス、「助手くん~♡」と呼びかける彼女の声で生殖の役に立たないイマジネール・ペニスは鋼のように勃起する。プレシアドの言い分を少しばかりこちらに捻じ曲げるのであれば、身体=性器の延長としての性器のエレクトロニクス化によって彼(彼女)らはもはや手を使う必要もなくなったし、まさに「機械とセックス」するマシーンとしてどちらが機械なのか分からなくなる、その倒錯と転倒にディルドの発明はメルクマールだったのだが、インターネットという道具はさらにその倒錯を推し進め、「いや、もうチンポもマンコもいらんて」という性器についてのどうでもよさ=快楽漬けの人類総去勢を達成してしまったのだ。となると、フロイト─ラカン─ベルサーニの精神分析が大切にとっておいたペニスの欠如についての問題はセックストイの系譜学とヴィリリオ的インターネットの加速の前に無に帰されてしまい、あるのはただプラットフォームで踊る不可視のファルスのみである。あとは博衣こよりを見てお前のペニスをしごくのはお任せである。俺たちはつねにすでにこよりのマンコに既にたっぷり中出し受精を決めているのだから。


  愛を求める旅の終着点が見えてきそうだ。Vtuber とセックスなんてできやしないと思いながら宝鐘マリンの同人誌を汚しているお前、そうそこのお前だ、大丈夫。お前の吐き出したインターネット・ザーメンはとっくのとうに推しを孕ませている。Vtuber とは常に出産間近の妊婦のようなものである。いつも腹の中の胎児に急き立てられており、非人間的なスケジュールを要求され、赤信号には誰も気づかず、気づいたときには既に死産している。そうやって推しの Vtuber をペニスで追い詰めているのはお前なのだ。でも大丈夫、助手くんが喜ぶならこよりなんだってする、精液も飲むし助手くんの子ども産むからね、助手くん、愛してるよ……。こより、俺のこより、大好きなこより!


  俺たちのデロリアンは宇宙、あるいはこよりの胎内を漂っている。シミュラークルとセックスする手立てはもう見えた。あとは、目の前にいる女を愛し抜くだけ。この旅の果てに、俺たちは一体どのような光景を見るのだろうか。それはパソコンの光が明滅する愛のネオンに照らされたユートピア。あるいは、デブでよろよろのキャピタリズム。思い起こそう。俺たちは Vtuber とセックスすることで終わりとしての資本主義を閉じること。あるいは、資本主義が引導を渡す先としてのオルタナティヴ。加速主義や新反動主義もなんのその、ブルっちまうような革命を夢見よう。そしていつか、今度こそ愛した女と幸せになろう。

Ending Chapter:メランコリー、そして……


  俺たちの季節がやってくる。それはもう過ぎ去ってしまったことへのノスタルジーなのかもしれないし、あるいは未来に投企するひそやかな期待なのかもしれない。博衣こよりを真に愛する手立ての一端を垣間見た俺たちは、デロリアンを降りて、ニーチェの言う黄昏を見ながら安いタバコを吸う。


   俺たちバチャ豚に未来はあるのだろうか、という素朴な問いが自然に立つことだろう。Vtuber たちに未来はない。それは「来てくれてありがとう」と配信後に言うこよりがその都度死を経験し、引退という本当の死(ボードリヤールの謂をなぞれば、それは寓話の寓話、シミュラークルのシミュラークルになるわけで、どこにもオリジナルなどないわけだが)まで彼女なりに今をやりすごすその濫費に全てが現れている。しかし、インターネットを屹立したペニスとして操れる術を手にした俺たちはもう泣く必要はない。彼女を、Vtuber を、気の済むまでとことん愛し抜くことだ。それが例えヴァーチャルであったとしても、そこで射精するザーメンは本当の恋の香りを残しているはずだから。なので、俺たちバチャ豚に未来はあるのか、という問いにはこう答えよう。終わってしまった未来と、死んでいった仲間たちを背負って、いかなる時空からも解き放たれた現在をただ消尽することが俺たちの未来であると。


  反実在美少女(というか、女の表象)には、これもやはり常に、グローバル・キャピタリズムの問題が付きまとう。俺たちには現在しかないが、資本主義とミソジニーはその起源から終わっている。今を燃やし尽くす俺たちの燃料は過去となった彼女たちの亡骸である。ではどうすればよいのか?アイロニー、ユーモア、シニシズム……もはや打つ手なしのように見える。インターネットに突き刺さったペニスはもう不能になることはないけれど、冷笑、茶化しは過去の亡霊として今も残響が聞こえてくる。Vtuber という反実在について考えることは、そのまま過去について考えることである。


  バチャ豚に限らず、オタクはどれだけ対象を踏みにじれるかにその存在意義がかかっている。資本主義が終わるかどうかとか加速主義がどうこうという祝福されないナンセンスに終わっているのは、オタクが倫理的であろうとするある種の形容矛盾と繋がっている。かといって、六八年をもう一度やる気にはなれない。実はブッ飛ぶような革命は存在しなくて、ただ日々を燃やすことだけが世界を変革する近道なのだということはあまり知られていない。世界の書き換えと倫理の書き換えは相補的だが、世界を書き換えるということは即ち倫理が書き換わるということである。終わりとしての資本主義はなかなか退屈させてくれないし、無職の自慰機械と化した俺は Vtuber でオナニーすることが唯一の資本主義の暇つぶし=退屈そのものなのである。退屈や緩慢さを字義通りに受け取り、世界が同時にサーティワンのアイスクリームのように何食っても同じになればいい。エスノセントリズムも、グローバル化も、なしなし。あるのはただ、インターネットを漂う精子と存在しない卵子だけ。キャピタリズムの空間はこれから飛行機のマッハによってどんどん狭まっていくだろう。灰色の天井を眺めている時間と、Youtube を観ている俺だけが俺で、あとは全部ゴミだ。


  しかし、またしてもゴダールだが、彼が言うように希望を捨ててはいけない。交換可能な「真実のお嫁さん」は重婚的に倍々ゲームの法則を取る。「嫁」はどこにでもいるし、誰だっていい。肝腎なのは自殺を後押ししてくれる女がいるかどうかなのだ。俺は博衣こよりに「頑張ったね、もう終わりにしていいよ」とあの声で囁かれたら一発で首を吊る自信がある。愛は、常に死と隣り合わせだ。生きようという態度ではなく、自分でおしまいにする政治がある。それは希望だ。退屈と緩慢と反復の果てに、俺たちは床のシミになる。資本主義がもし「終わる」ものであるとすれば、そしてそのオルタナティヴが用意されているのだとすれば、それは絶滅ではなく、フルニトラゼパムで曖昧になった夏の日の海である。すべてが溶けあい、ぼけた水平線の向こうへ泳ぎ出す。口に水が入る、やがて肺に水が溜まる。何もかもが予定調和的に終わっていく。キャピタリズムの終焉は、きっと美しいはずだから、終わりが終わるまでこのままでいよう。こより、愛してる。

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