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母の日にお花を贈ったら

私には三人の母がいます。
全員生きているけれど、会えていません。

産みの母親
産後間もなく、離れ離れに。

3歳以降の育ての母親
感謝してもしきれないママ♡
パパとママが離婚してから疎遠に。。。

3歳までの育ての母親
埼玉県在住の伯母、今日はこの母について書かせてください。



産みの母親が他に居るという事実を知らずに長年、生きていました。
20年以上もの間、隠し通した周りの大人たち、そして当時まだ子供だった兄や従兄が本当に素晴らしいと思います。


母の日にお花を贈ったら


伯母が私を育ててくれていた時期があるということを知り、今から約20年前のある年に母の日のプレゼントを贈りたいと思いました。

お友達がお花屋さんをオープンさせたこともあって、お花を贈ろうと決めました。
お店ではアレンジしたお花を全国に発送していたので、中部から関東へ送料込みで当時7000円と5000円とが選べて、私は奮発する気持ちで7000円のお花をオーダーしました。



母の日の当日に伯母から電話が


「届いたのかな?」
と思いました。その通り、お花が届いてかけてきてくれた電話でした。

「アハハハ」結構大きめな笑い声
「ちょっと、love子、お花が届いたわよ」
あれ?なんだか雲行き怪しい強めの口調。

「こんな小さいお花、贈ってきて恥ずかしいわ」
おやおや、そんな〜。。。
「お花屋さんに言ってやんなさい、こんなお花じゃ恥ずかしいってね」

私は電話口で「え〜」「ごめんなさい〜」と言ったくらいで、会話になってたかどうかショック過ぎて覚えていませんでした。

なんとも言えない気持ちで、電話を切りました。
表情はきっと曇ってた事でしょう。

まだ幼かった娘と息子に「だれ〜ねぇ電話だれ〜」と言われて、「なんでもないよ〜」と二人をギュウ〜っと抱きしめたことは鮮明に覚えています。


伯母の性格


乳飲み子の私を引き取ってくれた伯母は、とても優しく温かい心を持ってる人なんです。
でも、口から出てくる言葉にトゲがある。

従兄弟が結婚して、姑と嫁の関係は良いものにはなってませんでした。
親戚の集まりや、おばあちゃんの葬儀の時にお嫁さんが可哀想になるくらい、言葉がとにかく厳しかった。

孫が出来てやっと、嫌われる辛さを痛感したようでしたが、態度が変わる事はなく。
でも病気をしてからの最近は口調も柔らかくなりました。

2年前までは私も電話でお話したり、文通で交流していました。
ある時、電話でまたキツイこと(パパの悪口)を言われてまた疎遠になってます。


私だけは好きでいよう

こんな思い込みを、ようやく、捨てられたと思います。
伯母はきっと、こんな思い込みに縛られる私を、開放してくれてるんだと思います。

私が母の日にお花を贈った理由は、伯母が「嫁が母の日のお花くらいくれると思ったら何にも無しなのよ。」と言っていたのが気になってたせい。
電話や文通で交流していたのは「今は皆、ラインでしょ、私は電話や手紙が好きなのに。」と言ってくれていたから。

だけど、伯母は誰かに同情されたりすることが、とても嫌いです。
私の同情心を見抜いていたんだろうなって、思うのです。


お母さんへの感謝

3歳になるまでの私を、娘として育ててくれたお母さんは伯母さんでした。
スズメ百まで踊り忘れず、の諺にあるように、教えられた事は今でも私の役に立ってます。
左利きを矯正し、くせ毛を心配して毛を剃り、好き嫌いをさせず、躾けてくれたこと。
誰からも愛されるように、と挨拶を教えてくれたこと。そして愛してくれたこと。
その全てを心から感謝し続けています。

同情で贈るお花や手紙より、思い続けることなら毎日でも出来る。縛られることなく自由に。


生母、お母さん、ママ、ありがとう♡

三人の母が、それぞれの形で私を世に送り出し、潔く手放してくれたことに感謝します。

誰とも会えないでいることを、ダメな事だとは思わずに生きていきたいと思います。



ライラン中になら書けるかも。と思って思い切りました。
母の日が来るたびに思い出す、チクっとする思い出です。





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