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MUJIのA6ダブルリングノートで書く。

天気がいい。名前のわからない鳥が鳴いている。

僕は数日前から三浦俊彦の『可能世界の哲学』という本を読んでいるんですが、「可能世界」という言葉のなんと魅力的なことでしょう!無数の「可能な世界」が実在するっていう考え方なんですから。小説を書く人ならだれでも、その人の頭の中に可能世界が描かれますよね? んで、それが文字になったり、パソコンやスマホの画面に表示されたり、朗読されて音声になったり、アニメや映画になったり。そこここに世界が立ち上がるわけですが、それが「ほんとにあったら」! 楽しすぎますよね。楽しすぎる。

で、僕のこの読みは、勝手な誤読だろうし、それでいいのだ、と思っていました。誤読をするつもりで、そもそも、この本を買ったんですよ。2022年のことです。で、最初は全く読めなくて、ほったらかしていました。この頃になってふと、読み直しているんですが、どうしてだかわかんないけど、すんごく身に染みるんです。

身に染みるあまり、可能世界論の大御所であるデイヴィッド・ルイスの『世界の複数性について』もAmazonでポチってしまいました。だって、あまりにもおもしろいんだから。

で、小説を書こうかって時にですね、僕はいつも何かこう、遠慮というか、しり込みのような感覚が拭いきれずにあったんです。「そうはいっても、フィクションだし」、とか。もしくは逆に、何を書いてもよくて、何でもアリであるがゆえに、選べない、みたいな逡巡があったり。何でもアリっつっても、これ、1㎜も意味なくないか? と思ったり。うまく説明できないんですが、わかってくれる創作者さんはいらっしゃると思う。

そこへ、この可能世界を導入すると、ノンフィクションを書いているような気分になって、僕としてはものすごく気が楽になる。どんだけ奇想天外な話だとしても、そういう土地を訪れた旅行者が書いたクロニクルだということにすると、がぜん面白くなってくる。

どうしてでしょうね? たぶん、僕は気が弱くって、堂々と嘘をつくのがへたっぴぃなんです。そんな嘘、つく意味なくねぇか? とちらっとでも思ったら、書けっこないですよね、小説など。

可能世界は、そういう僕に、まぁ、起きてることをそのまんま書いてみ、と言ってくれます。観察日記なら、たのしい。旅行記も楽しい。夏休みの自由研究もすきだ。

てなわけで、三浦本の全体の半分ほどまで熟読しています。少し前までは、マーカーと付箋なしには本が読めない質だったんですよ、もう、長いこと。それがどうしたことか、何か、線を引かずに読めるようになった。千葉雅也の『センスの哲学』もマーカーなしで通読できた。その代わり、ページのたわみがすごいけど。なんかね、ちょっと音楽を聴くのと似た感じかもしれない。途中で曲を止めませんよね、ふつうは。とりあえず流れに乗って、最後まで読む。そのかわり、僕はわりとゆっくり読んでいると思います。

いや~、しかし、可能世界すごいな。三浦本と、ルイスを読み終えたら、次の小説の構想を思い浮かべようと思うんですが(←思ってばっか)、まだカケラもヴィジョンがありません。ただ、長さだけは300枚超えでいこうと決めています。何となく。

今日の朝、黒猫を見かけた。フェンスの向こうで、ぼーっと(僕から見たら)していた。黄色い侵略的外来種が繁茂しまくっている草地の中で、黒猫はぼーっとしていた。
なんかちょっと、しゃれた絵ですらあった。

僕は千葉雅也さんのnoteがすきで、よく読むのですが、彼が「汚言症的にウワウワ書く」効能みたいなことについて、書いている回があるんです。汚言症的に書くというのは、口から出任せに書くということで、文字通りそれ、できたら最高に楽しいだろうな、と僕は思います。

で、際限なくウワウワ、うわうわになってしまう。一旦。その上、おい、敵がやってきたぞ! とかいう風に持っていくと、ノワールになる。簡単といえば、簡単。子どもの警察ごっことか、戦争ごっこって、こういう感じですよね? 大変だ! ものすげぇ数の敵だ! みたいに、むしろ敵がすごいほうが楽しいし、なんなら、敵をすごくしちゃう遊びなのかもしれない。

僕らが小さい頃には、小学校の建物のちょっとした陰になっている所を利用して、そこに立て籠もったりしてましたよね。僕は武器とか食料の補給をする兵站の役がすきでした。ま、裏方ってことなんですが。小学校の昼休みって、どのくらいだったんでしょうね? ものすごくいっぱい遊んでた気がするんですが。水筒を持って行っていた記憶がないんで、蛇口から水道の水を飲んでたんでしょう。もちろん、教室にエアコンとかなかったですが、あんま、熱いとか寒いとか気にならなかったですよね。

子どもの頃の話は、全体的にどう語ってもノワールじみてきます。なぜだか、いつも、仮想の敵がいた気がします。千葉がいうには、そういう虚構の陰謀で遊ぶのは健全な批評らしい。あれは批評だったんだ。

村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』とか『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は、いや、それだけでなく、ほかの作品にも、邪悪な敵が出てくる。他人が書いた小説には、どんどん敵が出てきてほしいし、敵にも活躍してほしいくらいだ。そう思いませんか?

『騎士団長殺し』に出てくる、免色という人物は、見たところしゃれた風貌で、銀色のカッコいいジャガーでやってくる。ダークな部分などかけらもありませんよ、と顔に書いてあるかのような男です。彼は敵に入れてもいいと思うのですが、敵というより、こっちがあこがれたくなるようなヤツなんです。克己心が強くて、行動をぴしっと律している。もちろん、自分の利益に適うようなかたちで。みごとな男です。で、彼の思想とか、行動原理みたいなものが、たびたび語られるんですが、そこが少し汚言症的。うわ~っと彼のペースに巻き込まれていきます。部分部分はもっともなので、反論しようがないような形で。でもトータルではとんでもなく、いいかげんなヤツじゃんか! と気づくころには、もう諸々が進んでいる。

免色は、味わい深い人物ですね~。あきらかに、『グレート・ギャツビー』のジェイ・ギャツビーの生まれ変わりとして登場している。財力があって、頭がはたらいて、カリスマ性がある。考えてみると、あからさまに悪いことをするヤツ、怪物みたいなやつよりも、一見紳士然としている男の方が、じわっと怖いし。

汚言症的に書くことには、長いこと抵抗があった。Aが汚言症的にしゃべる癖があって、僕はそれを嫌っていたから。しかし、意図的に汚言症のように、そうであるかのように書くとなると話は別だ。むしろ、やってみたいとすら思っている。何かが解放されそうだ。そんな気がしませんか? どんどん話が脈絡なく逸れていく、展開していくのは、それはそれで疲れるわけだが、そこに悪というか、黒幕を登場させてみる。これが、汚言症モードごっこという遊びだ。新鮮だ。

他人の悪口を言わない、とか、不満を口にしないのがよしとされる文脈がありますよね? 僕はわりにそういう文化的ミームに汚染されているわけですが、悪の登場を正面切ってコトバにしてみるのは、時には爽快できもちいい。

僕の場合、さっき言ったみたいな狡猾こうかつなミームが敵かもしれません。狡猾系ミームは手強いよ。ちゃんとしたヤツの顔をしているから。村上春樹の小説にたびたび出てくるノッポとチビの二人組は、見るからに悪いヤツだ。部屋のなかをめちゃくちゃに叩き壊したり、バーで口論を始めたりする。

一方、狡猾系ミームは、むしろ僕らがすすんで帰依きえしたくなるようなカリスマ性を持ち合わせている。こいつに手懐てなずけられたいと思ってしまう。免色のような男に手懐けられるのも、あるいは悪くない人生かもしれない、と思ってしまう。こわいよね。

駅がすきだ。
人がたくさんいるから。
駅が閉まってしまわなければいいのにと思う。
まぁ、僕じしんは家へ帰っちゃうわけですが、駅のほうは、不夜城だといいなと思う。
それでも、始発までに少しの間だけ、駅は休止する。そして夜明けごろ、始発に乗るために人々が集まってくる。
僕は始発電車には乗らない。
駐車場の投光器に近いところに車を止めることができた日は、その明かりで文章を書く。ラッキー。
駐車場だと、なぜかたくさん書けるんです。
無印のA6ダブルリングノートに書いています。ペンは、ぺんてるのエナージェル。
晩ご飯は、カレーとホイコーロー。


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