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小説 #08 壺井と若い衆とヴィークル。

壺井は、人の記憶をアーカイヴしておくアーカイヴ業を営んでいる。顧客たちの多くは、裕福な女性で、クリエイティブな仕事をしている。作家であるフェイ・フューもその一人である。

The Vehicleという商号を、壺井は気に入っている。ヴィークルとは車のことだが、人に変化をもたらすための触媒、エージェント、メディア・・・という意味もある。顧客たちの記憶をに容れてやり、それによって彼女らの変容が促される・・・という設計にしているのだ。

壺井のセッションを受ける間、彼女たちがもれなく夢想するのは、もちろん優雅な欧州車に乗ってどこかへ運ばれていく自分の姿である。それもまた、壺井が設計していることだった。

作家のフェイ・フューが先だって壺井によって記憶の〈抜き取り〉を行ったところだ。壺井は顧客の前では決して〈抜き取り〉という言葉は使わないのだが・・・。

今日は壺井はコウという若い男の運転する車に乗っている。その男は壺井のスタジオと同じ建物にある中華料理店のウェイターである。

「どこへ行きますか?」光が聞く。
「そうだなぁ、雨が降りそうだし、ネイティヴランドNative Landにしようか」
「いいですよね、あそこ。雨だとね」光は前を向いたまま答える。

「また灼けたんじゃないの?」光の腕を見て壺井が言う。
「僕はそんなでもないですよ。店の連中は、みんなもっと灼けてます」

壺井は店のテーブルを忙しく動き回って働く光たちを思い浮かべた。白い麻のシャツの袖をまくって、彼らは若さと健康さを振りまく。いいことだよな。若いやつらはこうでなくては。壺井は微笑む。

しばらくすると、予想通りに小さな雨が降り出した。

壺井はちょっとこめかみを押さえる。

「どうかしました?」
「いや、ちょっと幻覚が・・・」
「やばいですよ、壺井さん。何か飲んだんでしょ」光が笑う。

このごろ、壺井を奇妙な幻覚が襲っている。まるで他人の記憶が彼の記憶野へ滲み出ているかのようなのだ。

壺井は自分のアーカイヴ屋の仕事のことを、光へは教えていない。同じ建物の店子テナントどうしの付き合いだが、あの中華料理店の人間は、誰も壺井がどんな仕事をしているのかを知らない。

雨がしっかり降り出した。光がワイパーをオンにする。
「なんか、今日は道、混んでますね」
「ゆっくりでいいよ」壺井のまぶたが重くなる。

光の運転する、ほろを下ろした濃紺のBMW Z4に運ばれながら、壺井はその幻覚の方へ、とぷりと足を踏み入れていた。

・・・机にアジサイが活けてあって、ノートパソコンが開かれていて、ランプの明かりがついている。それは壺井の部屋ではない。

クッキーが、皿の上に載せてある。
壺井は少し、かじってみる。うまい。自分では決して買わないが、唐突に差し入れられる贈り物は、なぜか何でもおいしい。そう彼は呑気に思う。

黄色いコンランショップのマグカップに濃いコーヒーが入っている。

水は240ml。最初に30ml落として蒸らす。それから70mlずつを3回。壺井はなぜか自動的にコーヒーの調合を言い当てている。

それから、突然、女が部屋に入ってきた。

女はアタッシュケースをぱちんと開き、壺井に中を見るように促した。

その何かは、6個きっちり並んだクロワッサンだった。大きめのパリッとしたクロワッサン・・・。

壺井はそれへ手を伸ばし、機嫌よく食べ始める。
ぱり、ぱり、ぱり。

「おいしいですね」壺井は女に感想を言った。
「それは一つが1万円よ」と女が自信たっぷりに告げる。

えぇっ、と驚愕したとたん、そのクロワッサンは齧られた部分を速やかに回復しながら、しゅぽりとケースに収まってしまった。

「今日はここまでよ」
女はケースを元の通りにパチンと閉じると、それを抱えて去っていった。

転じろフリップせよ

「車、留めましたよ」光がそっと壺井を起こした。
「歩けますか?」

壺井は目を覚ました。気分はもうすっかりよくなっていた。
「すまん、眠ってしまった」

「いいですよ。外が見える席、電話で取ってもらいました」
「おぉ、いいね。気が利くね」

彼らは車から出た。光は車をロックすると、壺井の背中をそっと支えた。

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