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小説を書くことと、ニーチェとか。

一日よく雨が降った。机に飾っている名前のわからない花がいいにおいだ。花の色は白で、香りが濃厚。プラムの花に似ているが、枝や葉は草花っぽい。

構想中の小説について、今日はまだ1秒も考えていなかった。

主人公・伊佐時折いさときおりがどんなヒーロー道を歩むのか、僕はまだヴィジョンの焦点を結ぶことができない。

彼が持てる力をすべて投入して、何事かを成し遂げる。それだけはぼんやりとわかるのだけども、一方で、そう簡単にトキオリを操作していいのか? とも思う。

逆に、たとえば、彼がすでに非凡な力を持っていて、それをふるうだけで諸々が解決したら? そうしたら、伊佐時折はヒーローというよりも単に傲慢な男になってしまう。僕にそんな勝手が許されるのか?

そうだ。だから、トキオリははじめは無力な存在なのだけど、トライ・アンド・エラーで次第に経験を積んでいくのだ。

当たり前といえば当たり前ななりゆきだけども。

で、それをどう切り分けるかっつうか、段階を踏ませるかっつうことなんだけど。困難というか、彼をはばむ出来事を、僕が思いついたりできるのか? 彼と利害が対立するような存在。そいつの側からしたら、自分が正しい。そういう対立する存在。

できるだけ、出てくる人物や出来事をリアルで詳細で、身につまされるように描きたい。それが今回の課題。「そこまで言わなくても・・・・・・」と思わずつぶやいてしまうような容赦のない世界にしたい。

と、そんなことを今はじめて思いついた。いいことだ。

今朝から読んでいるニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』の影響(?)なのかも。ツァラトゥスという架空の人物が、ゆく先々で箴言しんげんを伝えるんだけど、それが容赦ない。「おぉ、そこまで言い切るか~!」と胸のすく思いがする。

メディアアーティストの落合陽一さんは『ツァラトゥストラはこう言った』を10代の頃から少なくとも4周読んでて、ふだん持ち歩いてもいるそうだ。という話に影響されて、僕も買ったのだけど、一周目を途中までで放り出してて、久しぶりにまた最初から読んでいるところです。

不思議な本だ。言葉づかいは決して難しくないんだけど、読んでいてレンズのフォーカスがシュリシュリっと合わせに行ってるみたいに、僕は何かを調整しながら読んでいる気がする。

その感じがわりと気持ちよかったりする。

落合さんはニーチェで気持ちを上げていくらしい。
その境地になれたらな~。

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