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「対称性」で、頭をつかわないで書く。

中沢新一が言う「対称性」という概念があるんですが、僕には不思議な考え方に思えるんです。「対称性」というのは、こんな含みのある言葉だったんだっけ? と。

まず、非対称性というのは、言語をつかって自他の区別をはっきりさせること。

それに対して、対称性は、言語をうまくつかえなくて、AとBの区別ができないこと。自他の区別のうすい世界。つまり、整合性を信じない小説。個人的妄想に根差している。自他の線引きが大ざっぱになってくる。創作論的には、自分の理性に頼るよりも無意識の部分を出していく、頭をつかわないで書く。

「心の働きのおおもとの部分に、論理的矛盾を飲み込みながら全体的な作動をおこなう〈対称性〉と呼ばれる知性の働きを据える」

中沢新一『芸術人類学』

矛盾を飲みこんで全体となる。それが「対称性」。

え~? そうなんだ! と僕は驚いているところです。区切るんじゃないんだ! いえね、明らかに僕は「対照」という単語と混同していたわけですが。

さらに驚いているのは、そういうグシャグシャした、明晰さとは程遠い原野(=僕の頭の中)が肯定されていることです。このまま、書いてもいいんだ! という、安堵があります。ナイーヴすぎるかな?

翻訳家の柴田元幸さんも次のように「錯乱」をすすめてもいる。

僕が(大学で)やっていることは基本的にいかにして考えないようにさせるか、腹で何かモヤモヤあるのをどうやってそのまま言葉にするのかを推し進めることなんですね。で、その人が思わず書いてしまったようなことを「それいいね」ってこっちも反応する。新しくなくてもその人が実感として感じているものがふと言葉になって出てくると、やっぱり強いんですよね。

柴田元幸、高橋源一郎『小説の読み方、書き方、訳し方』

僕が今、言いたいことは、世間は「敵」をやっつけることをデフォルトにしているように映ると言うことなんです。で、「敵」という部分にいろんな単語を放り込むことができる。

こっちと向こう。善と悪。ホームとアウェイ。合ってるか間違ってるか。イケてるか、イケてないか。そういう区別をさっと器用に峻別しゅんべつして、何なら他人のために峻別して見せてあげる。

もてはやされているのは、実のところ、その器用さ(だけ)だったりする。

ところが、最初に書いた「対称性」ということで言えば、ぐじゃぐじゃとして、分けられないことこそを言祝ことぼいでいいかもしれない。少なくとも、何かを創作しようとする人は。

だから僕は、創作論でいう型とか登場人物の役割とかっていう、パキっとした区別がほんとに苦手で、考えた方がいいよな、と思って何度も挑戦するんだけど、その度に頭がミシミシと痛み出す。

だから、話がとりとめなくて恐縮ですが、僕は中沢新一に勇気づけられ、柴田先生だって「考えずに書け!」とおっしゃってるし、と、いろいろげき文を集めてみたわけなのでした。

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