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ブログをやめられない深刻な理由


本当に、よくぬかしたな。
「毎日更新」だなんて。
あっという間に10日以上、空きましたけど。笑




書けなかったわけではないんです。
むしこの10日で、4つか5つは書きたい事が産まれた。

でも思いと考えを言葉にする作業、その言葉たちをまとめる作業に、私はまだまだ時間がかかる。
時間がかかるのに、私の目首肩の耐久力は2、3時間だから、もう全然進まないわけですよ。

目方首をなんとかしようと一生懸命ほぐすのだけど、同時にほぐすための力も入るから、結局プラマイゼロで全然回復しない(マッサージって自分でやるものではないのだね)。
回復しない間はもう携帯見るのも嫌だから、回復するまで更新は2、3日止まる。



で、回復して再開しても、稼働時間は2、3時間。
一生進まないわ、こんなの。





感情って生物だから、時間が経てば経つ程、鮮度が落ちていく。
創作のエンジンである感情の鮮度が落ちれば、当然書く氣も失せてしまう。



時間が経ったらやる氣が失せるものなんて、その程度のものだよ。だから無理してやらなくていい。
何事も自分の幸福のために行動するのだから、それが自分の苦しみになり始めたら、本末転倒だろ。



いつもなら自分にこう言うところ。
でもこのブログに関しては、1週間空いたあたりからかなり焦ってきて、10日以上空いた今、焦りでもう居ても経ってもいられなくなった。




無名の私のブログは誰も読んでいないし、書けばお金になるわけでもない。
何故こんなにも焦るのか。



見つけてしまった理由が、けっこう深刻だった。



まず、焦る理由。
それは「このブログが終わる事に、恐怖を感じているから。」
このまま面倒くさくなって、更新しなくなって、何度目かわからないブログの終了をまた迎えるのではないかと。



で?
それの何が恐怖なのか。



日常に大したイベントがない私にとって、ブログに書く内容は、ほぼ自分の内面になる。
日常の些細な出来事を広い、それについて感じたことと考えたこと、つまり自分の内面で起こったことを大量に書いている。


当然ながら自分の内観に割く時間と労力が多くなり、自分の価値観や考え方をどんどん発見する。
価値観や考え方をたくさん発見すると、それを材料に自分の思想が出来上がってくる。



自分の思想が出来上がると、あらゆる言動をそれを基に行えるので、言動にブレがなくなって安定し、自分の存在を確立して生きていけるようになる。
だから思想というものは、自分の人生を支える「柱」である。
(「土台」と言ってもいいのだけど、「柱」のほうが、持ったまま移動できる少し自由なイメージがあるので、「柱」のほうが好みだなと思ってこちらを使っています。
いつか腰を据えたくなった時が来たら「土台」にすると思います。)



逆に言うと、自分の思想が出来上がらない限り、自分の存在は確立できない。
存在を確立しなくても生きることはできるけど、柱や土台のないまま生きることになるから、周囲の人や状況に流されまくって生きることになる。



そういう生き方を楽しめる人はいい。
でも社会不適合者の私は、自分の居場所を外には見つけられない。
だから自分で創るしかない。



自分の居場所を自分で創るにあたって、柱や土台は絶対に必要なもの。
柱や土台がなければ、生きる場所が創れない。



生きる場所が創れない。
生きる場所が、ない。


生きる場所がなければ、生きていけない。


生きていけない


思想がなければ柱がなくて、柱がなければ生きていけない。
つまり、ブログをやめたら、死ぬ。
ということになります。



生命に関わる活動に、なってしまっていた。
そりゃあ焦るし、何言い聞かせても焦りも消えないよね。
だってやめたら死ぬんだから。
呑氣にしてる場合じゃないわよね。



「やめたら死ぬ」ことに氣付いてしまったことによって、やめることができなくなってしまって、若干泣きそです。
でもね、「やめる」事ができないだけで「休む」事はできるからね。



これぐらいしか優しい言葉かけてあげられない。



愛子


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