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オバサンの醍醐味。

はじめに。

「オバサン」になったことで、日常のあらゆるシーンでメリットを感じる。つまり、「オネエサン」時代は何かと苦悩が多かった、ということでもある。「若さ=素晴らしい」というのは肉体の元気さとそれに伴う行動力や集中力、記憶力などに限っての話、と言っても過言ではないと思う。

しかし「オネエサン」時代には「オバサン」になることをやたらと恐れていた。その「オバサンを恐れる気持ち」もまた「オネエサン」時代の苦悩のひとつだったので、なんとも皮肉な話である。

すっかり「オバサン」が板についた今。

現役の「オネエサン」たちに声を大にして言いたいのは「オバサンになることは、思っているほど悪くないし、なんなら醍醐味といってもいい」ということだ。

そんなひとりのオバサンの「個人の感想です」が、オネエサンたちの苦悩の役に立てるといいな、と思っている。


一人称を「オバサン」「オバチャン」にするのは何歳からがよいのか問題。

「オバサン」の醍醐味を体験するためには「オネエサン」から「オバサン」へのシフトを定義付けておくことが大切である。

それは、つまり「何歳から一人称を『オネエサン』から『オバサン』にするべきか問題」に自分なりの折り合いをつける、ということである。

ここでいう一人称は、「名も知らぬ子供などに『オバサンが〇〇してあげるね』という風に声をかける場合に使用するとき」を指している。例えば、ショッピングモールで迷子の子供を発見したとき。「オバサンと一緒にママを探そう」といったシーンで使う際のアレだ。

じつは、この一人称・オバサンの使用の定義がフワッとしていると、びっくりするほどモヤモヤしてしまうのである。そこで見習いたいのが出世魚・ブリ。いくら「私的には、まだメジロ気分なんだけど」「まだハマチでいたい」と思ったところで市場では「ブリ」と呼ばれるのだ。ブリがどう思っているのかは分からないが、オネエサンからオバサンへのシフトは出世魚のようなものと受け止めていれば、心理的な葛藤も少なくて済む。

そして我々、人間にはブリとは異なり「いつから一人称をオバサンにするか」については自分に決定権がある。悩ましいのが子供の有無が「一人称・オバサン」デビューの時期を左右する、ということだ。

若くして母親になった人は、例えまだ20代前半だろうが、わが子の友達に対して「オバチャンが〇〇するね」と言うようになる。しかし、子どもがいないと「一人称・オバサン」デビューのタイミングがあいまいになる。同級生で早々に母となり、何のためらいもなくオバサンデビューを果たした友の隣で『ということは、私もオバサン……』と心の中でつぶやき、何とも言えない気持ちを味わうのだ。これは、多くの女性が20代半ばあたりで体験しているので安心して欲しい。

そこで推奨したいのが、子供がなかった場合「一人称・オバサン」の採用時期を自分の中で30歳と定めてしまうことである。

私自身、なんとなく30歳から「オバサン」と自称するようになっていた。すると、幼児が「え~。オネエサンだと思ってた!」などと返してくれるのである。

小学校1年生ぐらいの男の子が、スーパーで父親とはぐれていたので「オバサンと一緒にサービスカウンター行きましょう」と連れて行ったことがあった。すると、父親もサービスカウンターに来ていてあっという間に無事に再会できた。お父さんと会えてホッとした少年は満面の笑みで「オネエサン、ありがとうございました!」と言ってくれた。この時、私は38歳であった。

平成の世では子供たちに「見知らぬ女性をむやみにオバサンと呼んではいけない」という教育もされているのだろうか。

一人称を「オバサン」にしておくと、相手が「オバサン」と言ってきたとしても『自分からオバサンって言ってるしな』と納得できる。相手が「オネエサン」と返してくれた場合は素直に喜べるので、どっちに転んでも気持ちがいいのである。

ドラマなどで、通りすがりの子供に「オバサン」と呼ばれて「なんですって?」となるシーンがよくあるけれど。そういうシーンを見る度に最初から、オバサンと自称しておけばいいのにな、とつくづく思うのだった。

そして、わが国では大人のお作法としてれっきとしたオバサン、オジサン、なんならバアサン、ジイサン相手でも「オネエサン」「オニイサン」と呼びかける、というものがあることも付け加えておこう。

オバサンの総意「肉体は若返りたいが、精神はオバサンのままがいい」。

中学2年生の夏休みに仲良くなってから、ん十年。現在に至る友達がいる。ある時、彼女は言った。「若いころには戻りたくないなあ。今の方が全然、気持ちがラクだし」と。

「そうだね」とふたりで中高時代を振り返ってみた。10代の私たちはオバサンになった今、振り返るとほぼノイローゼだった。

ノイローゼだった理由は明白である。

人の目を過剰に気にしすぎていたのだ。
そして、常に他者と自分を比較していた。「あの人はできているのに、私はできていない」というような比較。友達の結婚披露宴で新婦の友に『彼女は結婚できたのに、私はどうして……』とモヤモヤしてしまうのも、すべて比較しているからゆえのことだった。

人の目を気にし、人と比較してしまうというクセはオバサンになったからといって自動的に消滅するわけではない。
オバサンになっていく過程で、そういう自分を苦しめるクセをなくしていく作業が不可欠である。

ただ、オバサンになっていく過程でこういうクセが自分を苦しめている、ということを知ることができたから。
そして、オバサンになる過程での時間を、こうしたクセをなくしていく作業に費やすことができたから。

だから「今の方がいい」と言えるのだと思う。

その作業とは「人は人、自分は自分」という境界線を引くことだったり。
「あなたはそうなんだね」と自分とは違う意見や思想、趣味嗜好を「認める」ということだったり。
そうした「違い」があることを認めた上で、その人との関係性を築くことだったりする。

口で言うのは簡単だけれど、実践するのは結構難しい。

「よく、無事にオバサンになることができたね」
「ほんと、良かったね」

しみじみ酒を飲みながら検証した結果、「肉体の老化という点に関しては、若いころがよいと思う。しかし、精神面については今のほうがいい」という結論に至った。身近なオバサン仲間に「若いころに戻りたいか」と聞いて回ったところ、ほぼほぼ皆「カラダは子供、頭脳は大人」のコナン式でお願いしたい、という意見だった。総意、といっても差し支えないだろう。

2023年に話題となった人気ドラマ『ブラッシュアップライフ』はまさに、この夢を体現していた。とはいえ、新生児から何度もやり直すのはかなりキツイだろうな、と思った。「虫歯を作らない」「足が太くなるライフスタイルは避ける」といった「カラダは一生ものです」という視点からの後悔の種を、生まれたてのボディ時代からつぶせる点はうらやましかった。しかし、いったん成人した心で、未成年をやり直すのは違った意味での厳しさがあるだろう。

さらに、オバサンになることで得られる「精神的なラク」は加齢によって実現できている面が多いことも指摘しておきたい。

例えば「人に頼るのが苦手で、なんでも自分でやろうとするけれど同時に『なんでいつも、私ばっかり』と思ってしまう」というような悩み。こんなの、オバサンになって「肉体的にしんどいな」ということが増えると、人に頼むことへの心理的な抵抗感などどんどん薄くなってくる。「荷物、持ってくれるの? ラッキー」という具合に。

特に、仕事の場で若人が率先して何かをしてくれるのを「ありがとう」と言えるというのは加齢特権である。「いつもありがとうね」と感謝の心を忘れずに、大いに頼りにしたいところだ。

ただ、ここで変に拗らせてしまうと「年寄り扱いするな!」という老害路線に突入してしまうので注意したい。なぜなら、若人にとって加齢は未知の領域。ゆえに『そのぐらいは、自分でできますよ』ということまで、手伝おうとしてくれるから。

そんなときは「実は、これぐらいはできちゃうのよ」と自分のことを「加齢のリアルを示すテキスト」として活用しよう。

オバサンの肉体のリアル。

加齢にともない、肉体には「老い」が忍び寄る。
若いころには想像もしていなかった世界がそこにはある。

例えば、老眼。
細かい文字が読めなくなると同時に「文字を読む」という行為もおっくうになってくる。私はかなり活字が大好きなタチであったが、近年の読書量はさみしい限りだ。仕事で活字をしこたま読んでいることもあるけれど、いつしか洋画も吹き替え版をチョイスするようになった。ムーディな照明の飲食店ではメニューが読めないことも、しばしばある。しかし、今はスマホがある。写真に撮って画像を拡大して読む、という老眼ライフハックで乗り切っている。

例えば、白髪。
35歳ごろから出現しはじめ、五十路となった今『白髪染めをいつ辞めるか問題』に直面している。根本にキラキラ輝く白髪との共存を模索する日々だ。ただし、白髪に全く悩まない人もいたり、白髪よりも髪が細くなってきたのが気になるなど、毛髪の悩みは千差万別である。

例えば、体力。
無理をすればなんとかできるけれど、そのあとのダメージが深刻になってくる。徹夜もできなくもないけれど、そのあと3日ぐらいは調子が悪くなる。また、体力の衰えゆえに行動力も落ちる。以前ならテキパキできたことが面倒に感じ『ま、いいか』が増えてくる。以前よりも「疲れやすい」を実感することが多く、ちょっとしたことですぐ疲労する。そして、これも個人差が大きい。

例えば、閉経。
月経がなくなることを閉経といい、その前後5年を「更年期」と呼ぶ。この間、女性ホルモンの分泌が減っていき、それに伴い、自律神経が乱れまくってさまざまな不調が起きる。私の場合、仕事を終えた後、ソファに座ったまま立ち上がれないほどの疲労困憊があった。お風呂に入るために、やる気を振り絞る日々。そのほかは耳鳴りやめまい、皮膚の乾燥などがあったが、かかりつけの婦人科でホルモン補充療法をすすめられて始めたところ、不調がなくなった。ホルモンのドーピングを続けて1年ちょっとがたったが、まあまあ調子がよい。

例えば、シミ、しわ、たるみ。
これは三十路、四十路でもジワジワ体験してきたことの程度がどんどん増していく、といった印象。美容医療である程度、どうにかできるジャンルなので、この点の対応はそれぞれ、といったところ。ちなみに、私は四十路で一度、立体感のあるシミのようなものを3つほどレーザーで取った。最近、また同じようなものができたので除去しようと思っている。

例えば、ボディラインの変化。
重力の存在を身をもって実感するようになる。筋トレでカバーできる分野なので、各自のメンテナンス具合で程度は異なる。私の場合は、ボディラインのわからない服装を心がけ、極端に太らないように気を付ける程度の頑張りしかしていないので、脱いだらすごいんです。

例えば、睡眠。
休日に「昼まで寝ちゃった」などということが起きなくなり、『もうちょっと寝ていられたのに、なぜか自然に目が覚めてしまった』ということが、日常になってくる。しかし、五十路でもカラダがほどよく疲れていて、でもメンタル的にはリフレッシュしているときなど、ごくまれに「昼近くまで爆睡しちゃった!」という奇跡が起きる。こういうときは充実感がすごい。

例えば、食欲。
個人差はあるものの、おおむね「昔よりも量が食べられなくなる」という人がほとんど。量の減少に伴い、質の向上を求める傾向も強い。しかし、睡眠欲、性欲の衰えに比例して「食べ物がもたらす癒やしの力」は増大する。このことが結果的に「太る」に直結するという実感を日々、覚えるようになる。

例えば、身体能力。
「すぐコケる」「反射的に動けない」といった自覚症状も少しずつ現れてくる。コケるのは「障害物がよく見えなかった」もしくは「筋力が衰えていて思っていたよりも足が上がってなかった」のいずれかが原因。脳でイメージしている動作を肉体が再現できなくなる、というギャップによるものと推測される。若いころに俊敏だった人ほど、そのギャップが大きい。若いころから俊敏でなかった私はこのギャップはあまり感じていない。

例えば、健康診断。
四十路ごろから、なんらかの数値異常や再検査という結果が出始め、いわゆる生活習慣病の診断をもらう人が増え始める。命に係わる病気の診断を受けた人も身近になってくる。同級生の訃報が届き、胸を痛めながら「今」をありがたく、大切に生きようという気持ちを強く持つようになる。

オバサンになると肉体の若さが永遠ではない、ということを日々、実感するようになる。しかし、日常は続くので何らかの対策をしようと模索し始める。オバサンになって他人の言動が気にならなくなったのは、「肉体の老化の対策で多忙になり、他人のことを気にする余裕がない」からなのではないか、とも思う。

オバサンになると、あらゆるモノの”効果”を実感できるようになる。

温泉に入った瞬間に「沁みる~」と感じたのは四十路になってから、であった。それまでは、ただのぼせるだけで家の風呂との違いが全くわかっていなかった。温泉に申し訳ない。

思えば、温泉のほかにも「カラダによい」と言われることの効果を体感できるようになったのは、四十路以降である。マッサージに関しては、小学生のころから肩が凝っていたベテラン勢ゆえ、気持ちいいと感じてはいたけれど。「マッサージすると、やっぱり違うわね」という終了後にカラダがラクになったというような実感には程遠かった。

サプリメントも何がいいのかわからなかったし、20代後半で体験した「お顔のたるみにいい」という美容医療もさっぱりだった。今、思えば温泉にしろ、美容医療にしろ、サプリメントにしろああいうモノを体験してよいルポを書けるのは、四十路を過ぎたオバサンしかいないということだろう。

オバサンになった今、どんな微量栄養素であってもカラダは逃さずキャッチする。先ほど、シークワサー果汁入りのシャーベットを食べたが、クエン酸の疲労回復効果に「!」となった。すっかりシャキッとした。オバサンは積極的にシークワサーを摂取するべきである。

この5年ほど密かに悩んでいた「かかとの頑固な角質」も、先日、Amazonで購入した『かかとちゃん』という商品ですっかり解決することができた。寝ている間、足に装着するだけでかかとがしっとりする、というこの商品。オバサンじゃなくても効果を実感できるのかも知れないが、そもそもかかとの角質が頑固になったのはオバサンになってからなので、比較ができない。若いころは不要だったアイテムが必要になるのもまた、オバサンの宿命であるが仕方がない。

髪がパサつく問題も、先日、Amazonで購入した「シルクのナイトキャップ」で解決した。もう、つやつやである。私は髪が長いので、ロングヘア用を装着している。これが修道女のようなたたずまいであるが、毎晩、神聖な気持ちで眠りにつけるのもなかなかよい。枕との摩擦で髪がパサついていたとは、オバサンの髪はなんとデリケートなのだろうか。ナイトキャップ、もう、手放さないわよ。

今のオバサンにはAmazonほか、さまざまなレビューを閲覧する機会がある。レビューにご丁寧に年代まで添えてあるのは「同世代の声を知りたい」からなのだ、とハッとした。三十路、四十路、五十路と世代によってニーズも実感が確かに異なる。三十路の人が「まったく効かなかった。買って損した」といっているアイテムも五十路は大絶賛、ということがままあるではないか!

若いころ、年上のオネエサンたちがこうした商品の情報交換をしているのを眺めつつ『なんで、あんな話ばっかりしてるんだろう』と思っていた。しかし、今ならわかる。Amazonのない時代、あの情報交換は貴重なユーザーレビューの交換会であり、よい解決策を知る機会だったのだ。

オバサンになることで起こる肉体のあらゆるダメージを、「よい」とされる商品たちが解決してくれる。若いころに「うん」とも「すん」とも実感できなかったことを思うと、達成感がすごい。そんな風に、小さな幸せを感じられるチャンスが、オバサンには豊富にやってくる。

オバサンになる自分を受け入れるために、必要なコト。

誰もが年を取る。
それは生きる上での「面白さ」であると同時に「苦しみの原因」になるのだと思う。

オバサンになる以前は「自分ばっかり」が割を食っていたように感じていた。ほかの誰かが体験している幸せや「いい思い」が、どうしてわが身には起きないのかと不平等を嘆いてみたりもした。

けれど、オバサンになるとともに開けていった視野で世界を見回せば。誰もが人生において困難を体験していることに少しずつ、気付いてきた。いつもあなたに迷惑をかける職場の「あの人」。あの人もまた、あの人の世界では生きづらさや、困難を感じているのかもしれない。

そんな風に思えるようになったからといって、あの人を好きになることはできなくてもいい。『人生とは、誰かに迷惑をかけ、かけられながら続いていくモノ』とか『自分とは相容れない人がこの世には存在する』ということが、分かってきたりもする。そして、相容れない人と無理に接点を持たないという選択肢があり、その選択を自分でできることも見えてくる。

ただ、オネエサンからオバサンになることで失うモノがある。

子供を産むことができる、という”機能”だ。それを失ったときに『産んでおけばよかった』という後悔にさいなまれて生き続けることだけは、しないで欲しいなと思う。選択しなかった「たら」「れば」の世界に思いをはせ続けることの苦しみは、一生つきまとってしまいがちだから。

月経がなくなる、という現実は50歳前後でやってくる。
それは生殖機能の終わりを意味しているし、現実的にはその10年前ぐらいが妊娠・出産のラストチャンスになる。閉経するタイミングの5年ほど前からそのカウントダウンは始まっていて、医療がいくら進歩したとしても、その現実はきっと変わらないだろう。

この生き方を自分の意思で選んできた、という自覚がないままにオバサンになってしまうと、けっこうしんどい。そういう自分を丸ごと受け止める、という作業にも膨大なエネルギーを費やすことになる。

そうはいっても「選ばなかった人生」のことを考えてしまうことは、誰にだってある。隣の家の芝生が青く見えるのと同じように。だけど、そんなときでも「自分の今」を「なかなか、いい」と思うことができれば、穏やかな気持ちで「たら」「れば」を妄想することができると、思う。

オバサンになっても日々、精進。

自分の不運や不幸、世の中の不平等を呪っていた若き日の私が望んでいたのは「一点の雲すらない快晴」のような心の状態が「ずっと続く」ことだった。なんだそれ、とオバサンになった今は思う。雨の日があるから、晴れの日がありがたいのだし。雨は憂鬱だけれども、降らなかったら困るじゃないか。そんなことすらわからなかったのか! 

「雨は憂鬱なもの」というイメージが強すぎて、ひたすら「雨を嫌う」ような心理状態だったのだと思う。そういう決めつけは、生きていく中で誰かや何かから強烈に植え付けられたことで起きる。心理学用語でいう「認知のゆがみ」というものだ。

「認知のゆがみ」もまた、完璧になくすことはできない。そして、誰にでも大なり小なりの「認知のゆがみ」がある以上、人との関係性で戸惑ったり、苛立ったりすることは必然的に発生するものだ。例えば、夫婦間でよくある「夫が家事をしてくれない」という問題。これは夫の側に「家事は妻がするもの」や「妻が家事を通じて自分の世話をしてくれるのが、愛情表現」といった「認知のゆがみ」があるパターンが圧倒的に多い。

ほかにも。
「子供は老いた親の面倒をみるべきである」
「結婚したら子供を持つべきである」
「家を買って一人前」
「しかるべき年齢で結婚するのが普通」
「いい年をして独身なのは、訳アリに違いない」
「子供がいたら、離婚するべきではない」
「家族は仲良くするべき」
といったモノを強固に持っている人が多く、それが私たちを苦しめている。

以前、母親から「私の面倒をどう見てくれるのか」と聞かれた際に「いや、面倒を見ますよとは保証できない。なぜなら私の方が先に死ぬ可能性があるから」と言ったことがある。母は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたが、私が先に死ぬ可能性は五分五分なのでそれ以上、何も言ってこなかった。

いろいろあって、私は家族と疎遠になった。私自身の幸福度からいうと、家族と接点を持たなくなってからのほうが、断然、高い。

一緒にいて、苦しくなる人と一緒にいる必要はない。

と思うと同時に。その「苦しさ」の原因が「自分」にあることも少なくない。その場合は、自分の中の「原因」と向き合うタイミングなのだと思う。

例えば、勝手に相手と自分を比較して劣等感を覚えて、しんどくなっているような場合。それは、劣等感を覚えている自分をどうにかするタイミングである。そうしなければ誰と一緒にいても、この先ずっと劣等感を覚え続けることになる。

逃げたほうがいいのか。
向き合ったほうがいいのか。

その判断は意外と簡単だ。
向き合うが先、逃げるが後。

まず、「どうして私はつらいと感じるのだろう?」「この気持ちのザワザワは何故?」をしっかり突き詰めていくこと。そうしない限り、何度でもそのツラさやザワザワはぶり返してしまうから。

そして、この「向き合う」には年齢制限も卒業も終わりもない。死んだあとのことは分からないけれど、この世を去るその瞬間まで多分、向き合い続けることになるんだろうなと思う。

オバサンも日々、精進しているという事実に、オネエサンたちは失望するかも知れない。しかし、オバサンになったからといって、葛藤がゼロになるわけではない。老化する肉体に翻弄されるし、病を得ることだってある。自分勝手な上司や同僚、クライアントが「あの人、オバサンだから」と無条件で物分かりがよくなってくれるわけでもない。

だけど、オバサンは知っている。
自分の心の中から湧き上がる、モヤモヤやザワザワと「向き合うこと」は若干の先延ばしができる。ゆえに、先延ばしちゃうこともある。でも、何度でも目の前に現れて「どうするの?」と問いかけてくるのだ。だから、いつしか向き合わざるを得ない。だったら、早く向き合ってしまったほうがなにかと都合がよい、ということを。

そうやって日々、精進していくうちにまた今年もひとつ年を取る。

さいごに。

ここまで、オバサンの独り言を読んでくださり、ありがとうございました。
一人称・オバサンになってからかなりの年月がたった私です。でも「どうせ、オバサンだから」というような卑下する気持ちは、不思議とないのです。オバサンだからこその醍醐味を味わいながら、精進しながら毎日を比較的、愉快に過ごしています。

三十路には三十路の。四十路には四十路の。五十路には五十路の悩みや葛藤があります。この20年それらの葛藤を繰り返してきて、いくつになっても、悩みはつきものであると同時に。年齢を重ねることには、メリットも多いなと気づいた次第です。

加えて、私が社会人になってからの30年。
日本は「失われた30年」という時代でした。年齢を重ねるごとにいわゆる「生きにくさ」は増していっています。ジェンダーギャップ指数はどんどん下がっていて、世界からの置いてけぼり感も年々、増していますしね。

加齢に抗いすぎて、苦しんだり。ときに滑稽になってしまっている人もたくさん、見てきました。加齢、という避けられない現象をひとつとっても、受け止め方次第で愉快にも苦悩にも変わるんだな、とシミジミします。

ほんの少しでも、誰かの気持ちを愉快にしたい。
そういう文章をお届けできる人になりたいと思っています。

2023年7月16日
クレア

#創作大賞





























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