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シングルの悲劇。
嗚呼、連れがいたら……
独身、ひとり暮らし。親きょうだいとは疎遠だが、幸いなことに仕事はあり、友人もいて、近所に顔なじみの店や道端で会えば快くモフモフさせてくれる犬の友達もいて快適に暮らしている。
しかし、いくら快適なシングルライフでも時々、悲劇に見舞われる。そんなときばかりは『ああ、どうして私はひとり暮らしなどしているのだろうか』と悲観に暮れる。
今日も、そうだった。
いつの間にか国民の祝日にジョインしていた海の日。毎年、フレキシブルに日にちを変えて、3連休を作り出してくれるありがたい休日だ。だからといって、旅行に行ったり行楽の予定を立てたりするマメさに欠ける私であるが、3連休はうれしい。
3連休の最終日。「大人しく家にいる」という熱中症アラートが出ている日の模範的な過ごし方を実践していた。ほんの少しだけ、いつも以上に掃除を頑張ったら汗ばんできたので『危険』と判断して、早々に切り上げた。ひとり暮らしにとって、「家で熱中症になって倒れる」は絶対に避けたい悲劇のひとつである。
夏は仕事や約束がない限り、「日没するまで外出しない」というバンパイア・ライフの実践者でもある。汗をかかない程度に家事をして、じっと日暮れを待った。
とはいえ、たまには明るい街を歩いてみたくなる。17:00をすぎれば、日差しも和らいでくるので、最寄りの駅ビルの中にあるスーパーに行くことにした。帽子をかぶり、日差しと冷房対策の薄手のカーディガンを羽織って、凍らせた水のペットボトルを準備。
玄関のドアを開けると、モアっとした熱気に包まれたちまち、外出する意欲が損なわれそうになったが、ぐっとこらえた。出かけてしまえば楽しいよ、と自分に言い聞かせて。
徒歩10分の道のりではあるが、ひとつだけ欠点がある。線路沿いなのだ。日差しを遮るモノが何ひとつない道が延々と続く。すでに日差しは和らいでいるものの、1日中照り付けられた地面が床暖房のよう。
『夏の暑さと冬の寒さをブレンドして、ちょうどよい塩梅にできたらいいのに』
そんなことは無理だとわかっているけれど、思わずにはいられない。途中で水を飲みながら、目的地に到着した。
駅ビルに入った瞬間、冷気につつまれて、うっとりする。ああ、至福。やっぱり頑張って来てよかった。お惣菜コーナーのショーケースを眺めながら、何を買うか頭の中で検討する。『焼き鳥のレバー、タレでしょ。焼き鳥のレバー、焼き鳥のレバー』。今夜はレバー祭りだね。
快適な涼しさにテンションが高まり、食料を買う前に「3coins」をのぞくことにした。実は、私は3coinsのラインアップに対して、いつも欲しいのか、欲しくないのか微妙な気持ちなのである。とはいえ、髪を留めるクリップや、ハンガー、洗濯ネットなどいろいろ愛用しているのだけれど。
カフェカーテンを買い替えたかったので、よい色柄のものがないかチェックした。すると、300円から150円とディスカウントになっているモノを発見。カフェカーテンではなく、生成りの綿のカーテンで幅100×長さ180もあるではないか!
このサイズのカーテンも探していたのだが、3coinsにはない、と決めつけていたのだ。
生成りの色もよいし、綿なのもよい。カゴに入れ、レジに向かう前に財布を出そうとバッグの中に手を入れてみた。
あれ?
あれ?
財布はどこ?
じっくり探してみたが見当たらない。え? え? もしかして?
考えられることは2つ。
①途中で水を飲むためにペットボトルをバッグから出したときに、財布を落とした。
②家に財布を忘れた。
①だったら悲惨であるが、私には②だという確信があった。なぜなら、水を飲んだ時にかなり人が往来していたので、財布が落ちたら誰かが声をかけてくれただろうから。
持っていたのはスマホとモバイルバッテリーとエコバッグ。財布を持たずになんで、モバイルバッテリーとエコバッグはあるのだろうか。残念にもほどがある。
スマホがあるならば、PayPayで事足りるだろうと思った方も多いことだろう。しかし、この駅ビルはどの店もPayPayが使えないのである。
ここにいる限り、私は無一文に等しい。
カゴに入れたお買い得のカーテンをそっと棚に戻し、カゴも片づけて目立たぬようにひっそりと3coinsを後にした。
こんなとき、連れがいれば財布を忘れたところで直ちに帰宅しなくても済んだのに。
「大丈夫、オレは財布持ってきたから」
「よかった~。焼き鳥レバー買ってくれる?」
「いいよ。何本?」
なんていう会話を交わして、焼き鳥を味わえただろう。
私は皮付きのトウモロコシも買いたかった。それと、キウイフルーツも買いたかった。でも、私はひとり、そして無一文。
しょんぼりしながら、トボトボ帰宅する。Pay Payしかないので、「まいばすけっと」でも買い物はできない。ここ数年、都内でバンバン開店しているミニスーパー「まいばすけっと」。便利な「まいばすけっと」の唯一の不便はPay Payが使えない、という点だ。なんだかんだ言っても、やっぱりキャッシュが最強だ。
帰宅すると、ダイニングテーブルの上で財布がちょこんと「立って」いた。三つ折りの小型財布なので、三つ折り部分を下にすると立つのである。比較的、主張強めの置き方をしたのにね、忘れるときは忘れるんだね。
Gの悲劇
ひとり暮らしの悲劇の代表格といえばコレだろう。
たまに、ひょっこり出没するので『ゴキジェットプロ』は常備している。コレがあれば、決死の覚悟で退治できるが怖いものは怖い。
「1匹いたら30匹いると思ったほうがいい」という恐ろしい格言のせいで、一度、出没したら1週間ぐらいソワソワして過ごすことになる。
去年、今年と家の中では出没していないが、道端で遭遇するのも実は怖い。Gに限らず虫全般に言えるのだが、奴らの何が怖いって常にサプライズをしかけてくることだ。登場もサプライズ、動きもサプライズ。
数年前、お隣に欧米人カップルが住んでいたことがあった。すれ違えば会釈する程度の関係だったが、彼らが日本語を離せないことはなんとなく知っていた。
ある夜のこと。『相棒』を鑑賞していると、インターフォンが鳴った。うちのインターフォンはモニターが付いている。出ると、隣家の女性が震える声で「ヘルプ ミー」を連呼した。
『相棒』を観ていた私は『夫に暴力を振るわれたとか、夫を指しちゃったとかだったらどうしよう』ととっさに思った。勇気を出して玄関ドアを開けると、涙目のスーザン(仮名)が丸めた雑誌を持って立っていた。
その姿にピンときて、たちまち安堵した。
「コックローチ!、コックローチ!」
連呼するスーザン。直前まで殺傷沙汰を創造していた私は「なーんだ、コックローチね」というような余裕の態度をしてしまった。
英検3級の語学力で、スーザンに「待ってて」と告げ、『ゴキジェットプロ』を取って戻った。スーザンに貸すつもりだったが、動揺している彼女は私の手を取り、自分の部屋へと引っ張っていく。おいおい。私に退治しろと? 「カムイン、カムイン」と家に招き入れられる。へっぴり腰で家に上がり「どこ?」と日本語で聞くと「バスルーム」と返ってきた。なんで通じるのだろう。不思議だ。
スーザンは奴の出現からの様子を私に語り始めた。要約すると、奴が出てきたので持っていた本を投げつけたら、バスルームに逃げた、ということだった。なんで、本を投げたのか。逃げるにきまってるじゃないか、と思ったけれど動揺するスーザンには酷だ。Gへのリテラシーの低さから、イギリス人だろうと見当がついた。
スーザンの部屋のバスルームに入り、あたりを見回したが奴はいない。5分ほどたっただろうか。スーザンも落ち着いてきて、「それを貸してくれる?」と言った。
「Sure」である。
30分ほどたったころに、隣家からスーザンの悲鳴と物音が聞こえてきた。ああ、再び、出没したんだなとスーザンの検討を祈っていた。
それから15分ほどたって、再び、インターフォンが鳴った。
スーザンが「ゴキジェットプロ」を返しにきたのだ。
ドアを開けると、彼女は満面の笑みで「kill」と言いながら、首を掻き切るジェスチャーをした。かっこよかった。
スーザンの夫は出張で不在だったのだそう。
「ゴキジェットプロ」はどこに売っているのか、と聞かれたので「コンビニにもあるし、ドラッグストアにもあるよ」と教えた。
「絶対買うわ!」とスーザン。うん。絶対、買ったほうがいい。
後日、スーザンがお礼のゴディバのチョコレートを手に、「買ったわ」と報告してくれた。
夫がいても、不在の時に悲劇が起きることもある。
やっぱり、自力でどうにかできないとダメなんだな、ということをスーザンは教えてくれた。
異国の地でのGの出没、どんなに心細かったことだろう。
後日、再びスーザンが「ヘルプ ミー」とやってきたことがあった。
その話はまた、別の機会に。
悲劇と思うことが激減している、という悲劇。
ほかにも、悲劇エピソードがあると思っていたけれど、まったく思いつかなかった。
今から20数年前に、松葉づえ生活を送ったことがあった。ひどい捻挫をしたのだ。そのとき、食料を買おうと家から一番近いコンビニに行って愕然とした。商品をカゴに入れられないし、カゴを持って店内を歩けないのだ。
買った商品はリュックに詰めて持ち帰ろうと思っていた。しかし、店内での行動まで思い至らなかった。途方に暮れていると、お店のおじさんが「私が商品を運びますから、選んでください」とカゴを持ってくれたのだ。
お言葉に甘えて、水や食料品を運んでもらった。
同居する家族がいなくても、こうして助けてもらえるんだということを知った瞬間だった。
だから、自分も助けられるときは、助けようと思って今に至る。
ちなみに、松葉づえをついていた頃、シングルではなくて恋人がいた。恋人がいたからといって、松葉づえでひとりで買い物に行く必要に迫られた、ということだ。決して彼が冷たい人だったわけではなくて、できる範囲で世話をしてくれた。
でも、お互い仕事をしている以上、べったり付きっ切りというわけにもいかない。自分でどうにかしなくちゃならないことは、恋人の有無に関係なく起きる。
デリバリーやネットスーパーが充実している今。もしも、また松葉づえを使うようなケガをしたとしても。あの頃よりも不便を感じることなく、過ごせるだろう。
これまで、風邪をひいたり、ぎっくり腰になったりもしたけれど。
心優しい友人が食料を買ってきてくれて。
安否を気にかけて、こまめに連絡してくれて。
ひとり暮らしだから心細いとか、不安を感じることもなかった。
そんなことを口にすると、忠告してくれる人もいる。
今はまだ、いいけれど。
そのうち、自力ではどうにもできなくなる日が来るかもしれないよ?
その通りだな、と思う。
でも、そういうときのケア要員のために、誰かと暮らすというのはちょっと違うんじゃないか、と思うのだ。
それに、相手が先にケアが必要になる可能性だってゼロではない。
コロナ禍を経て、ひとりで行動できる範囲が広がったように感じる。
飲食店も変わらず「おひとり様、ウエルカム」だし。
ひとり客に対する世間の眼差しも優しくなった。
恋人と一緒に旅行にいきたいな、とか。
いわゆる「デート」をしたいな、とか。
ウキウキした休日を過ごしたいという思いはある。
でも、ひとりで旅行もできるし、休日を楽しむ方法がたくさんあるのも事実。
シングルでいることで起きる「悲劇」が激減していること。
それが、現代のシングルの悲劇なのかもしれない。
とりあえず、出かけるときは財布を持っているかをしっかり確認しようと思う。
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