見出し画像

私小説【弟】焦らし

みなとはある時期フランスで整備の勉強をしていました。あの子はとても紆余曲折のある子ですから、やれ大学で博士号をとってみたり、エンジニアになると単身フランスに行ってみたりと、本当に明日のことはわからない子です。

エンジニアになると思い立ったのは、母が死んですぐのことでしたから、大学で座学をするよりも先に技術を覚えたことになるでしょう。母が亡くなった後で憔悴しきっていた私を残してみなとはフランスに行きました。あまりインターネットが発達していない時分でしたから、毎日空を見上げては飛行機を確認してあの子の無事を願掛けのように確認したものです。

たまに送ってくれる数枚の写真から、私は日に日にあの子の体が男の子から男になっていくのを感じました。背が伸びて、腕の筋肉が隆起して、、日焼けをして、ニキビが増えて、不精髭がたまにあって、目じりにしわができるようになって、そうやって2年を離れて暮らしたと思います。私はいつも便せん5枚にもなるラブレターを毎週のように送ったというのに、あの子は一通も返しませんでしたから、言葉を交わす意味では本当に2年ぶりの再会となりました。

2年ぶりのあの子は体こそしっかりと発達していたものの、どこか骸骨のような人間でないような死を想像させる、そう、まるで無生物のような印象を与えました。思わず触った、頬に湿り気を感じたことを私もあの子も無視して真顔で見つめ合いました。あの時から私たちの関係はがらりと変わりました。会えない、言葉を交わさないあの2年が私たちを別の人間へと変えてしまったのです。成長させたわけではないでしょう、そう、別人へと変えてしまったのです。まるで記憶をそのままに違う魂にペーストしたようでした。そこに導くためにあの子はフランスに渡ったのか、手紙を返さなかったのか、写真だけで私を焦らしたのか。答えあわせはしていません。でもあの子の夜尿症のことを思うと、癇癪のことを思うと、あの子は私が思うよりもずっとずっと頭が良くて計画的に私を懐柔しているように思えてなりません。

フランス語は少し話せます、英語は堪能です。いつもであればそんなことはおくびにも出しません。でも、修司さんや律さんを目の前にするとわざとフランス語で私に話しかけてくるのです。私はフランス語など話せません、英語でさえままならないのですから。でも、あの子は明日修司さんが、律さんが来ると言うと前日の夜上機嫌に私にフランス語の講義をはじめるのです。

「あめの、いい?これはこういうんだよ」

あの子の上機嫌は私も気分がいいので、そのまま覚えてしまって、翌日修司さんや律さんがいるときに話しかけられ理解してしまうから、暗号のようにふたりだけで会話が成り立つのです。

あの子は狡猾です。表の顔とは別に、何か得体のしれない魔物を潜ませています。それが生まれた時からなのか、成長の過程で飼育するようになったのかはわかりません。しかし、今、あの子の中には確実に魔物がいて、あの子は面白がって、仲良く飼育をしているのです。それもまた気づかないふりをしてやるのが姉の、いいえ、私の思いやりです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?