私小説【弟】煙草

あの子がタバコを吸うことを知ったのは、あの子がフランスから帰国してしばらくたったころだったと思います。母は過保護な人でしたから、みなとが少し喘息のけがあるというだけで様々なことを禁止しました。夏には必ず軽井沢で静養することを責任とさせたほどに、こどもたちには過干渉でした。幸いにして私はさほど体が弱くありませんでしたから、「責任」や「義務」を課せられる数は少なかったように思います。

あの子がフランスから帰ってきて、すぐには就職しなかったわけですが、その時にいくつかアルバイトを掛け持ちしたのです。昼間は家庭教師、夜は居酒屋だったかと思います。家の近所でしたから、私もよく見かけたりしたわけですが、居酒屋のアルバイトで、ちょうど2時ごろだったのかな。裏手のごみ箱の近くにしゃがんで慣れた様子で煙草に火をつけている姿を見かけました。

思わず見惚れてしまった、そう形容するのが相応しいでしょう。

裸電球が照らすあの子のかすかな不精髭と、細く骨ばった指、何を見つめているのかはわかりませんが、スマートフォンが照らすあの子のほの白い顔はまるで人間ではありませんでした。きれいだったわけでもありません、人間ではなかったのです。

慣れた様子で煙を吸い込み、味わうようにして口から吐き出す。

一連のよどみのない流れ、スマートフォンを見つめてほほ笑むあの子。みなとはもともと多くを語りません。居酒屋の裏手で煙草を吸っている姿を私がたまたまみかけたから、アルバイト先がそこだとわかっただけですが、それまではあの子が夜どこに行って何をやっているかも知りませんでした。

みなとの部屋には吸い殻はもちろんのこと、煙草のにおいさえありませんでした。どこで教えてもらったのか、何があの子を煙草に駆り立てたのか。流行や人に流されて吸うことを決めるような子ではありません。

あの子はストレスがたまると新しいことをはじめたがります。何か閉塞感を打開するために新しいことに挑戦したがるのです。

何があの子のストレスだったのか、冷静に考えれば「ストレス」という着地点があるものの、あの時の私は完全に気がふれていましたから、だれか女に教え込まれたと思い込みました。

私は帰宅後ベッドに突っ伏して2日間泣いていました。不思議とあの子は私が泣いていると姿をあらわしません。どうして私を放っておくのか、と、私は気持ちを加速させます。みなとへの怒りを増幅させるのです。

あの子が煙草を吸っているとき、私が抱いた気持ちを、だれもが恋だというでしょう。でも、認めても何も始まりません。だって、認めなくても何もはじまりませんでしたか。


今でもあの子が煙草を吸っている姿を見ると焦燥感にかられます。そう、焦ってしまうのです。あの子がどこかに行ってしまうような、私を通り越してしまうような。

あの子は同じ戸籍を持ち、離れられない生涯私だけの「弟」なのに。


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