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この穏やかな午後が永遠に続けばいいのに

 3ヶ月ぶりに収まった腕の中で、キスをねだられたのが一週間前。迫るのではなくねだる。その手には乗らなかった。私だけのせいにされたくはない。浮気をするなら、自分に意思があってそれを選んだのだということを覚えておくべきだ。
 「しないんだったら帰すよ」と口では言いながら、私が「いいよ。じゃあ帰る」とベッドから起き上がると必死で止める。そんなやりとりを6回は繰り返しただろうか。折れたのは彼の方だった。
 この日下ろしたばかりのブラウスに手がかけられる。「これ新品?」と訊かれても「最近下ろした」と答えてしまう。いい匂いのするお気に入りのヘアオイルに気づかれても「そうかな」とはぐらかしてしまう。それが私たちだ。

 「次行くとしたら月曜の昼かな」と言っておいたので、日曜日の夜「明日くるん」と連絡が来た。脈は仕込むものだし、楔は打ち込んでおくものだ。手料理を条件にまた彼の家へ足を運ぶことになった。
 料理を作らせる約束をしておいて手ぶらで行くのは気が引けたので、スーパーでハーゲンダッツを2カップ買っていく。店員さんに「ドライアイスはいりますか」と尋ねられてよくわからないまま「お願いします」と返す。一円玉大のコインを渡された。
 直感的にあの家にはアイスクリーム用のスプーンがないかもしれないと思い立ち、セルフ会計用の機械の横にあったプラスチックのスプーンを二つ貰っておいた。

 電車に乗り込む。人がまばらな車内には、10センチほど開けられた窓から初夏の風が吹き込んでくる。乗換駅で路線を変えて一駅。改札を出ると高架に腕をかけて線路を見下ろす彼が見えた。マスクをしていたのと髪を上げていたので声をかけるのを躊躇う。周りを見渡してもそれらしい人物はいないので、この人が彼なのだろう。なぜだろうか。以前のスタイリッシュさが少し失われたような気がした。
 声をかけると短い挨拶の後、不自然に沈黙が流れた。空白を打ち消すように、暑い、暑いと繰り返すので「これ冷たいよ」と先ほど買ったアイスの袋を差し出す。アイスはあっさりと指先をすり抜けて彼の手に渡った。

 部屋に上がり、一通り行為を終えた。約束通り麻婆豆腐を作る彼に、少し離れたところからちょっかいをかける。作り慣れているのか、手際が良い。あっという間に料理は完成した。私に合わせて辛さ控えめのそれは、目分量の味付けがすごくすごく美味しかった。
 夕方になり、帰るつもりで荷物をまとめて部屋を出た。ああそうだ、GUに行きたいんだった、と呟くと「じゃあおれも行く」と言うので、電車で一駅のショッピングセンターへ向かう。緊急事態宣言が解除されたばかりで、それなりの人出があった。
 目的は決まっていたので、目当ての商品を少し物色する。ネットで下見してはいたけれど、やはり実物を見てみないとわからないものだ。少し想像と違う。代わりに気に入ったものがあったのでそっちを購入した。

 買い物を終えるとおなかが空いたので、焼き鳥でも食べてから帰ろうよと提案する。彼も乗ったので父に連絡をして、飲み屋街の物色を始めた。
 20時が近い。5月末の夜の街は自粛ムードが色濃く残り、遅くまで営業したいる店は少なかった。なんとか遅くまでやっている焼き鳥店を見つけ出し、中に入る。流石に人はまばらで、店内の空気はなんだかゆったりしていた。
 焼き鳥やらもつ鍋やらを注文し、食べ終わる頃には22時が近くなっていた。もう帰るの?今日泊まっていけば?としきりに尋ねるのは、帰ってほしくない、まだ一緒にいてほしいと言う意味だ。お酒が入っているからか、なんだか寂しさの方が勝ってしまい、一旦家に帰って荷物をまとめ直すことにした。
 冬に買って結局使わなかった歯ブラシセットもようやく日の目を見るときが来たというものだ。メイク落としシートは疲れ切った日に重宝していたので、もう半分くらい使ってしまっていた。あの時は薬局で一番安いのを買った。次はもう少しいいものを買おうと思う。

 私が戻ってくるのを、彼は私の最寄り駅の改札から出ずに待っていた。女の子と電話をしながら。聞くところによると彼のファンらしいが、まあ彼の言うことなので真偽のほどはわからない。
 二人でもう一度あの部屋に帰る。なんだか新鮮な思いがした。
 お風呂上がり、彼が唐突に「コンビニ行きたい」と言い出した。靴下を履いて昼間着ていたワンピースを身に纏う。大きなリュックは邪魔に思えたのでスマホを片手に外へ出た。スマホ一台でキャッシングができると、こういうときに身軽でいられる。便利な時代になった。

 遮光カーテンの隙間から差し込む光で朝だと気が付く。明け方に目が覚めてから、腕をすり抜けて水を飲んで彼の要求に応えながらまた眠る。それを何度、何時間、繰り返していたのだろう。世界には私たちしかいないようなきがし一体今が何時なのか、眠っているのか起きているのかもわからないまま、お互いの体をまさぐりあう時間はまるで一瞬が永遠のようだ。もうずっとこのままでいい。世界から切り離されて、二人で、ずっと、このまま。

 私たちがようやく気怠い体を起こしたのは昼過ぎだった。彼がカーテンを開けると部屋全体がパッと明るくなった。疲れたねと笑いながらキッチンへ向かい、昨日の麻婆豆腐を温める。24時間保温しっぱなしだった炊飯器のごはんはほかほか柔らかくて、お前…ずっと頑張ってくれてたんだな……という気分になった。

 一人暮らしには大きいベッドで時間と体温を溶かしながら、なんだか彼に体を預けているのが当然のことのような気持ちがした。そうあるのが自然で、今までの相性の悪さが嘘のようだった。
 本当はこんなのはおかしいはずだ。だって私たちはもう何度もうまくいきはしなかったのだから。
 シャンプーの香りの中に薄く混ざった彼自身の匂いも、細い骨格も、回される腕も。違和感なんてひとかけらもない。相性なんてわからない。わかるほどの経験もない。それでもしっくりくるこの感覚の正体はなんだろう。

 彼の部屋でオンライン授業を受けて、そろそろ帰らないとなんて思いながら、ベッドの上で壁にもたれかかる彼の胸元に耳を当てる。心臓の音が流れ込む。鼓動が同じ速度で左胸から響いている。穏やかな時間。
 「頭撫でて」そんな要望を怖がらずに伝えられるような関係にようやくなった。もう顔色を伺ったりしなくていい。誰かに頭を撫でてもらうのが好きだ。

 帰宅しても髪からほんのりと彼の残り香がする。男の子とこんなに長い時間を共有したのは初めてだった。
 同じごはんを食べて、同じシャンプーを使って、同じお風呂に浸かって、同じベッドで朝を迎えた。今まで誰かと抱き合ったままでは眠れなかったのに。
 やりたいと思っていたことは、この2日間で大半やりきってしまったような気がしている。念願だった手料理も食べた。
 恋の炭酸は抜けきってしまって、今はもう生ぬるいだけのジュースのよう。でも不味くはなくて。落ち着くところに落ち着いて、ようやくいい関係でいられるのかな。

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