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影響を受けたくないんです

 所属していた大学の文芸部に部外から作品を持ち込んできたひとがいて、まぁ普通に全然詰まらなかったのだけど、取り敢えず私達がこういう話を書くならあれとかこれとかの作品を読んだり観たりすると参考になりますよ、と作品を幾つか挙げたところで、彼女が

「私、他の作品とかから影響を受けたくないんです」

と言い放って唖然としたのを私は今でも覚えている。

 うん、実在するんです。本当に……

 他の作品から影響を受けたくない、だから他の作品を積極的に読んだり観たりしません、というスタンスを私達が外野から安易に否定出来るのかといえば何とも言えない。けれど逆に興味深かったのは、そんな彼女の作品は、驚く程に平凡で没個性的であったということなのだ。それこそ幼児の落書きのように、私達が失ってしまった原初の世界を「下手糞に」表現してくれたならまだ評価も出来ただろう。でも彼女の作品は「ありきたり」でしかなかった。外部の影響を排して得られたかもしれない、彼女にしか存在しない個性なんてものは特になかったのである。

 つまり彼女は、既に何らかの形で既存の「物語」に触れていて、それを意識もせずに劣化再生産しているだけだったということになるだろう。彼女はもう手遅れなのだ。彼女はもう己の原初の世界を失って人間として育ち過ぎてしまった。ここで大事なのは、広い意味での「物語」というものは小説や漫画や映画などに限らず、私達の回りのあちこちで無数に再生され続けているということである。

 例えばテレビのCMが分かりやすい。あれだってほんの数十秒のうちに起承転結を用意して表現される「物語」だ。漫才やコントも然り。音楽の歌詞のなかにだって「物語」はある。ニュース番組や新聞でさえそれを「物語」のように効果的に伝えようとする作者の作為が混入している。イラスト一枚にすら「物語」は仕込まれている。私達はあちこちで「物語」を浴び続けている。

 そもそも、例えば友達が別の友達の話を、母親が父親の話を、先生が自分の思い出話をするだけでもそこには「物語」が生じるはずなのである。私達はごく自然に、あらゆる物事にストーリーを付けて喋るのだ。ほら、このエッセイの先頭を読み直してみてみるがいい。私はとある残念なアマチュア作家のことを露骨に「物語って」いただろう? そしてこの「物語」の詰まらなさとか凡庸さとかをちゃんと自覚出来るかどうかというのが、きっと創作の第一歩なのである。


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