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言葉の主導権


 例えば識字率が低くて文字を読み書き出来る人間が少なかった時代には、識字力を持った身分が高くて教養のある人々がいわば「言葉の主導権」を握っていたはずである。彼等/彼女等だけが文字で蓄積された大量の情報にアクセスすることが出来たのだし、そして彼等/彼女等が文字で蓄積した情報だけが後世に残っている。

 きっと私の祖先であるはずの北陸のド田舎に暮らしていた農民は、源氏物語も平家物語も名前すら知らなかっただろう。アクセス権もなければ発信権もないのだ。近代になって学校教育が全国隅々に行き渡り、やっとド田舎の農民の子供でも文章の読み書きぐらいは出来るようになった。でも源氏物語や平家物語という文化資本にアクセスし、ましてやそれについて自分の言葉を発信し蓄積に乗せるとなると障害は相当に高かったはずだ。

 文学も、芸術も、それにアクセスし、かつ発信出来るだけでハードルが高い時代があった。文学や芸術は非常に専門性の高い分野であり、また文学や芸術は外国の高度な技術、文化、思想を国内に輸入し普及させる最前線という重要な社会的役割を持っていた。明治・大正の文豪達は単に優れた作家であったのみならず、明治維新後の日本文化の決定的な刷新を担った人々でもあったはずだ。

 さて、しかし、今や「言葉の主導権」は何処にあるのだろう? 北陸のド田舎に産まれた子供が、電子書籍で安部公房を読んでその感想をSNSに挙げたりすることが出来る時代だ。関東にさえ住んでいれば、上野の美術館で歴史的名作を気軽に鑑賞することだって可能である。彼等/彼女等の言葉は世界に発信され、そして着実に蓄積されていく。

 かつて文学や芸術は、そのアクセス権を持つ特定の階層の人々にさえ届けば良かったし、その限られた階層の人々にさえ何らかの影響を与えれば良かった。それこそ同人誌がインテリ達の狭い身内で回っていれば良かった時代があったのだ。けれどアクセス権と発信権が一般人にここまで拡大した現代においては、文学も芸術も、この無限の言葉の集積に向き合う必要が生じる。

 「言葉の主導権」は私達にある。そして言葉の独占が行われないというのは、現代の社会理念としては至極真っ当なことである。しかしここまで「言葉の主導権」が敷衍してしまうと、文学や芸術ではこの膨大な私達を納得させることが困難になってしまった。売れないし、読まれないことが、まさに致命的な弱点となってしまったのである。


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