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『ユリシーズ』のコミカライズ


 私がまだ地元にいた頃にはもうあったから十五年は前だろうか、イースト・プレスの『まんがで読破』シリーズというのが結構流行っていた記憶がある。漫画で気軽に名作の粗筋を読んで教養を身に付けよう! みたいなムーブメントの走りの一つなんじゃなかったかな。一応それなりに大きな書店に行けば現在でも手に入らなくはない。

 ところで私がこのシリーズに懐疑的だったのは、コミカライズを担当した漫画家のクレジットが表紙の何処にも書かれていなかったからだ。例えば中公文庫には『マンガ日本の古典』というシリーズがあるのだけど、こちらは担当した漫画家の名前が、しかも豪華な執筆陣がちゃんとクレジットされている。先の記事で述べたようにコミカライズの面白さなんて結局は漫画家の技量次第である。漫画家の名前をクレジットするということは、漫画の面白さについても責任を持つということでもあるのだろうと思う。

 漫画家の名前をクレジットしないコミカライズを私は信用していいのだろうか。無名の、或いは無銘の漫画家でも構わない、名作の内容さえあればいい、内容さえあれば教養になるから、という安直がそこにはないだろうか。しかも驚くことに、このシリーズにあのジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』があるらしいのである。

 『ユリシーズ』といえば二十世紀最大の小説として名高い「名作」だ。しかし『ユリシーズ』といえば、意識の流れとか、神話との対応とか、実験的な文体とか、文学的な試みを詰め込みに詰め込みまくった超難解な小説としても有名である。私も集英社文庫版全四巻を持ってるけどその威圧的な分厚さに恐れを為して未だに手を付けてない。

 私は『ユリシーズ』の取っ付きにくさについて、表面的なことぐらいは知っている。教養と呼べるかも怪しい浅い知識しかない。でもこの作品の取っ付きにくさすら知らないで『ユリシーズ』を語るなんて意味がないはずなのだ。物語の粗筋よりも物語を「どう語るか」のほうがずっと重要な作品であり、それ故に日本語に翻訳することすら非常に難易度が高い作品であるはずなのだ。

 それを、名前のクレジットすら許されない無名の、或いは無銘の漫画家がコミカライズしたものを読むことに、一体どのような教養的な価値があるのだろう。いや、もしかしたら、もしかしたら、無銘でも文学的素養にも長けた凄い漫画家だったのかも知れないけれど……こうなると最早怖いもの見たさの領域である。


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