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眼に見えている物語

 「物語」は小説や漫画や映画などといった創作物に限らず、無数に私達を取り巻き続けていると考える。私達はテレビのCMなんて真面目に「物語」として観たりしない。しかし我が身を振り返ってみると、ほんの数十秒のCMを何度も何度も観せられたせいで何かしら影響を与えられている自分を見出だして恥ずかしくなることもある。ならば私達が真面目に「物語」として読んだり観たりするもの、例えば小説や漫画や映画のような創作物はどうなのだろう。これ等のいわば王道とも言える「物語」には、例の彼女が露骨に恐れていたことから分かるように「眼に見えている」ことに一つのポイントがあるように思う。

 ところで以前、個人に影響を与えるのは環境であって、創作物はあくまで環境の一部でしかないのだから良書にせよ悪書にせよあんまり過大評価すべきではない……と別の記事で書いた。この考えは特に変わらないが、しかし小説や漫画や映画などは娯楽商品として流通することで幅広い範囲の環境へと喰い込むポテンシャルがあるのも確かだ。阪神淡路大震災に被災して原発が爆発したんやと思ったおじさんは、きっとうちの地元みたいな酷くローカルな環境にしかいないだろうが、例えば東日本大震災をテーマにして高い評価を受けた小説ならば全国の書店に並ぶ。それを読まなくてもいい、取り敢えず書店に行けば東日本大震災をテーマにした評価の高い小説が積まれていた、という環境が日本全国で同時発生しただけでも影響力はある。

 けれど、じゃあそれを実際に読んでみよう! となると、少なくとも近所のおじさんの何気ない昔話に比べればより意識的に「物語」に向き合わねばならなくなるだろう。書店に積まれているだけならせいぜい意識の外側からこっそり私達に影響を与える「眼に見えない物語」の一つに過ぎない。でもそれを自ら手に取った以上はもう「眼に見えている物語」なのだ。

 私達は、私達を取り巻いている環境のなかに意図的に「眼に見えている物語」を持ち込んだ責任を負う。実際のところ、それがもたらす影響なんてのは環境の総体からすれば限定的なものだと私は思っているのだけど……少なくとも良書を読めば賢明になり悪書を読めば堕落するなんて短絡的な関係ではないだろう……しかし他の環境要因に比べればはっきり「眼に見えている物語」であるからこそ、例の彼女のようにそれに影響されてしまうのを恐れてしまう人間が現れるのかもしれない。


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