見出し画像

大衆の好み


 ぶらっと本屋に行けばいつも大量の小説が並んでいる。その大半は大衆文学……もうちょっと緩い言葉を使うならエンタメ小説だ。しかし「大衆向けのエンタメ」とは言うものの、これ等の小説の大半はそんなに売れることもなく次の新刊へと入れ替わっていく。大衆文学だって売れないものは売れない。『こころ』と『人間失格』が万人に読まれている一方で、無数の大衆文学は万人受けを狙うどころか誰にも知られずひっそりと消えていく。では何故、大衆文学はこんなにも次々と大量に刊行され続けるのだろう?

 作品の良し悪しなんてものは、実際に中身を読んでみないと分からない。しかしこれだけ沢山並んだ小説を片っ端から立ち読みするわけにもいかない。すると私達は、メディアの情報か、或いは自分の「好み」でもってかなり直感的に買う本を選ぶことになる。前回述べたように、好き/嫌いは主観的かつ絶対的な基準なので、見た感じ好きな要素さえあれば中身は然程気にしないのだ。

 「それ」が好きな読者がいる限り、「それ」を扱う小説には最低限の需要がある。たとえ一作一作の売上は大したことがなくても、読者の好みのバラエティーを考えれば、総体としてはそれなりの売上が見込める。より分かりやすく、より派手に、より目立つように、多種多様な「それ」を本屋に並べて短期間で入れ替えていく。大衆の好みのバラエティーを前提として大規模に行われる物量作戦……これこそまさに「大衆」文学たる所以なのであろう。近年のライトノベルの、あの気恥ずかしくなるようなタイトルによる露骨なアピールなんかが顕著な例であると思う。

 さて、大衆文学が大衆の好みという外的要因に積極的に合わせていくものだとしたら、その対になるはずの純文学は作者自身の固有の精神、何らかの内的要因を晒け出していくものとなるだろう。純文学も大衆文学も、個別に考えていけば売れないものは全然売れないし、売れるものは馬鹿みたいに売れる。しかし純文学はその性質的に、大衆の好みのバラエティーを満たすには、余りにも「それ」が個性的に過ぎる。純文学が重視するのは作者の個性のバラエティーであり、それが大衆の好みに一致する必要はない。

 だから純文学は、時折時流に乗っかってベストセラーを提供することはあっても、総体としては売れない。その確固たる信念が故に大衆文学のような物量作戦が取れないならば、では純文学は如何にして読まれるべきなのだろう?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?