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クラムボンの正体


 宮沢賢治の『やまなし』に登場する「クラムボン」とは一体何だと思いますか? みんなで正体について考えてみましょう、という授業を受けた記憶がある。そういや大学の読書会でもそんな議題があったっけ。

 これ、今ならば直ぐに答えられる。

 これは「分からない」が正解である。

 もうちょっと厳密に説明するなら、この童話の序盤部分は、語り手と兄弟蟹の「見ているもの」がはっきり統一されていないのだ。語り手は序盤、兄弟蟹とその周辺の景色を描写しているけれど、その景色は兄弟蟹が見ている景色とは明確に重なってはいない。ビデオカメラを想像してもらうと分かりやすいだろう。ビデオカメラは水中に潜って兄弟蟹と周囲を撮影しているが、その撮影範囲に兄弟蟹が眺めている「クラムボン」が存在している、という確たる証拠が文中にはないのである。画面にあるかないかすら定かではないものの正体を断定するなんて不可能なのだ。それから、兄弟蟹が魚を見上げて会話するところでようやく語り手と兄弟蟹の視野が重なり始め、「兄さんの蟹は……見ました」の下りでようやく視野の統一が明確となる。

 むしろこの童話は、クラムボンという「断定不可能な謎の存在」を序盤から登場させることで、読者と兄弟蟹との決定的な隔たりを強調している節すらある。幼くて無垢で人間ではない生き物と、そして彼等にしか見えない理解不可能な「何か」である。けれどこの隔たりは次第に解消されてゆく。世界を脅かす「おかしなもの」が現れれば、お父さんがそれに川蝉という正体を与えるだろう。兄弟蟹は成長し、最早クラムボンのことなんて話さない。そしてやまなしというとても優しくて美しいイメージで童話は締め括られる。

 「クラムボン」はむしろ、周到に用意された「断定不可能性」だ。世の文学者達があれこれと議論して、未だに明確な答えが出ていないことがそれを証明している。しかしそれでも私達は、クラムボンとは一体何なのか、その正体について「解釈」を試みようとする。限られた文中のモチーフをどうにか繋ぎ合わせ、隠された論理的な解答を探そうとする。そしていつしか『やまなし』という童話そのものが、クラムボンという謎のモチーフの解釈のために存在しているかのようになってしまった。

 真っ当に読めば「分からない」が正解なのだ。すると私達の「解釈」なるものは、いわば物語の限界を拒否する運動なのかもしれない。良い意味でも、悪い意味でも。

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