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純文学は読まれない


 例えば何千万部売り上げた少年漫画、高視聴率のテレビドラマ、社会現象起こしたゲームソフトなどが社会に与える影響は非常に大きいだろう。一方で純文学は、売れないし読まれないとずっと前から半ば自虐的に語られ続けてきたわけだし、実際読者の総数は決して多くはないだろう。

 しかし、純文学が一般には理解されない高度な芸術性を求める閉じられたサークルであるかといえば、別にそうでもない。むしろ近年の純文学なんて、ジェンダーや国籍などに絡んだ社会問題を積極的に扱い、震災や病禍の現実を克明に記録し、作者がメディアの矢面に立って政治的な発言を求められることもある。

 純文学は社会的な意義のあるもの、社会にコミットメントするものである、という理念を掲げるとき、売れないし読まれない純文学という在り方は決定的な齟齬を生む。一体ろくに売れも読まれもしないものが、どう市井の人々にその思想を届けるのだろう。後世に再発見されて参照される可能性に賭けているとも思われない。そもそもこの理念は、別に純文学という方法に拘らなくても達成可能だ。

 詰まるところこの理念を掲げる純文学においては、作品そのものが売れて読まれて残ることに意味があるのではない。純文学が取り扱うぐらい重要な問題なんだ、という「箔」にこそ意味があるのである。「箔」さえあれば最近は殊更に読まれてるわけでもないはずの大御所純文学作家が御意見番としてメディアに出続けるということもある。純文学の側としても、社会にコミットメントしているという大義名分を掲げてメディアのなかにその地位を確保する。

 私が「雑文学」などという戯言を宣言しなければならないのは、物書きとしての私は恐らく方法的には純文学に近いが(厳密にはエンタメの技術に乏しい)そのくせ近年の純文学の理念にはずっと不和を感じ続けていたからだ。

 創り方は純文学に倣うとしても、創らねばならないものまで従わねばならない道理はない。一体「丹生湖の水が抜かれて一面の藪になっていた」ことにどんな社会的な意義がある? 一体どんな時代的な必然性がある? しかし私にとっては最も大事なことなのだ。これこそが「創らねばならないこと」なのだ。

 「ねばならない」理由を外部に据えた時点で純文学は自律を失っている。どうせ売れなくて読まれないなら、せめて「ねばならない」は内側にあるべきだ、それが強いて言えば「雑文学」という戯言が最初に表明する理念である。


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