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下人の行方


 高校の国語の授業で、芥川龍之介の『羅生門』の「下人の行方について、続きを書いてみましょう」という課題が出た。私はどんなん書いたっけなぁ……なんか割合下人が自殺してしまう結末が多かったような記憶がある。

 今から考えれば、これはまさに「創作」の授業であると同時に「二次創作」の授業でもあった。私は当時から小説を書いてたけど(夏休みの創作部門に入賞してクラスに配布されてしまったり……)今から思えば、自分には「二次創作」の才能はないんだなぁと当時の時点で勘付いていたような節がある。つまり、私は他人の作品を自分自身の解釈で上書きしていくアプローチには向いていない。

 下人の行方は、知れないのだ。それが『羅生門』という小説の答えなのだ。『やまなし』がクラムボンの正体を断定出来ないように創られていたように、下人の行方は知れないものとしてこの物語は創られている。因みに初出では別の文章になっていたのが、短編集収録時にこのような末尾に修正されたのだという。下人の行く末は虚空に消えてしまって我々には知る術がない。下人が選び取ったエゴイズムの行く末は完全に失われてしまった、という居心地の悪い空虚こそが、この一文の醍醐味である。

 だから私は、その続きを考えてみましょうというこの授業に大きな違和感を覚えた記憶がある。知れないからこそ多様な解釈の余地がある。けれど、知れないのだと筆者が明言したなら、知れないままにしておくのが作品への敬意というものではないのか? 勿論、読者が自分の意志で解釈を広げて二次創作を産み出していくのは各々の自由だし、それに異論を挟むつもりは微塵もない。でも「知れない」で構わないと思っている人間に、無理に続きを書かせるのはなかなか無茶があると思う。

 これは私が自分もまた趣味で創作をしている人間だからこそ強く感じるのだろう。私はむしろ読者に対して「知れない」ことの断絶を押し付ける効果を大いに自作に組み込んでいく類いの作者である。答えは失われている。貴方は解釈することは出来ても、永久にその答えを知ることは出来ない。

 当時の同級生達が下人の自殺という結末を選んでしまったのも、筆者が残した「居心地の悪い空虚」をこのように解釈するしかなかったからのような気がする。「いや、私は知っている、下人はこうなったのだ」と胸を張って答えるには相応な度胸がいる。それが出来る人間は尊敬するけど、私には出来なかった。

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