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二月末のどんど焼き


 「お祭り」という舞台は物語のなかでよく登場するものだと思う。娯楽作品なら友達や家族や恋人と一緒にお祭りに行くなんてのは定番の「イベント」だ。金魚を掬い、綿菓子を食べ、型抜きに興じたりする。因みに私は未だに型抜きの屋台に出会ったことがないのだ。単純に見逃している可能性も高いけど、型抜きの屋台は現状私のなかでは空想上の存在である。

 お祭りとか運動会とか文化祭とか初詣とかは、少年少女が主役となるような創作物においては頻繁に描かれる定番の「イベント」であろう。こういう「イベント」には一定の共通化されたイメージがあるので、その物語がどんな土地を舞台にしていようが関係なく物語に組み込むことが出来る。何処のお祭りでも綿菓子は売ってるし金魚掬いを楽しむことが出来る。私は北陸でも関東でも関係なく、チョコバナナを買って食べる。ただ型抜きは本当に知らない。

 勿論読者と容易に共有出来る共通化イメージを(余りにも陳腐になり過ぎない程度に)利用するのは創作の一つの有効なアプローチだ。それに、例えばお祭りのように、イメージするのは容易だけど実際のところ賑やかで情報量が多い舞台をちゃんと表現するのは結構力量が必要で、文芸部時代にそれを持て余した部員が「まるでテレビで観たことがあるようなお祭り」と雑な描写で逃げようとしたのを叱った記憶もある。お祭りのイメージを一つ取ってもそこには分厚いテンプレート情報があり、これを適切に処理出来る技量があって初めて普遍的な場面となる。

 しかし、現実におけるお祭りというのは、この共通化されたイメージから離れたその「土地」固有の伝統のうえに成り立っているはずなのである。そこには由緒があり、地元の住人達の運営努力があり、特有の舞台装置や儀式がある。その土地に固有の物語がある。一般にはお祭りといえば夏のイメージだけど、うちの地元の一番大きいお祭りはまだまだ寒い二月末に行われる。個性的な囃子唄に合わせて櫓のうえで太鼓を叩き、最後には河原でどんど焼きが行われる。左義長のような火祭りの伝統がある街では、お祭りといえば冬というイメージのほうが強いかも知れない。

 きっと貴方の街にも、貴方の街だからこそのお祭りがあるはずだ。それはきっと固有の「登場人物」を産み出し、独特な物語を可能にするだろう。貴方の街にはどんど焼きに飛び込んで全部台無しにして死にたいとか考えてる厭世的な青年とかいないか?

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