見出し画像

アガサ・クリスティのあれ


 手塚治虫は漫画に映画的表現を持ち込んだ……みたいな話を始めるとややこしくなりそうなので割愛するけど、取り敢えず漫画と映画については、そこそこ表現の技術体系について似通った部分を見出だすことは出来ると思う。なので漫画の映画化であったり映画の漫画化であったりに関する技術的なハードルは、きっとそこまで高くはないだろうと思う。

 しかし完全に文字だけで表現する小説はどうか。

 漫画は画像と吹き出し、映画は映像と音声でもって物語の内容を表現する。文字だけで表現する小説とは表現の技術体系が全然違っている。勿論漫画化/映画化しやすい小説というのもあるはずなので完全に断絶してるとは言い切れないけれど、何にせよ小説の「どう語るのか」を漫画や映画で同じように表現するのは難易度の高いことであるのは間違いなかろう。

 小説の漫画化/映画化は、内容については原作をなぞれば良いいだろうけれど、その内容を「どう語るのか」についてはほぼ自分達で組み立て直さなくてはならない。一番分かりやすい例は太宰治だろうか。太宰治を「太宰治」という個性の強いキャラクターとして漫画や映画の題材にすること自体はさして難しくないと思う。けれど太宰治といえばあの文体あってこそだというファンも多いはずだ。とはいえあの「文体」を表現体系がまるで違う漫画や映画で表現しろと言われても無茶なわけで、となれば漫画家や監督/脚本家はもう太宰治の「文体」を無視して自分達の表現で上塗りしてしまうか、或いは太宰治の「文体」の醸し出す雰囲気だけでも漫画や映画の表現体系のなかで再現出来ないものかと試行錯誤するかのどちらかを選ばねばならない。

 どちらにしたって試されるのは漫画家や監督/脚本家の「どう語るか」の技量である。どんなに原作が良くたって、それを「語り直す」人達の能力が足りてなければ面白くはならない。例えば「信用出来ない語り手」を用いた叙述トリックのミステリ作品なんて、待て待て、どうすればいい? 叙述トリックの元祖としても名高いアガサ・クリスティのあれとか、叙述トリックを無視して普通に映像化してしまったら台無しじゃないのか?

 そう、台無しなのだ。かつて観たとあるドラマ化版ではそうだった。カメラの存在ゆえに一人称的な表現が困難な映像作品では叙述トリックは無理、と完全に割り切ってしまっていた。アガサ・クリスティのあれは普通のミステリドラマになってしまっていた……


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?