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センター試験の現代文


 もう共通テストだけども。

 文学部に進学したくせに、実はセンター試験の現代文が苦手だった。何が苦手って、四択のうち大体二択ぐらいまでは絞れるけれど、どうしても片方を「間違っている」と切り捨てられなかったのである。

 前の記事で引用した投稿では、国語教育を「一つの固定された答えを見つける」ものとしていた。まさにセンター試験の現代文なんてその最たるものだろう。私達にとって大事なのは、何故それが正解なのではなく、何故それが不正解なのか、であった。それで解答を見ると「明らかに間違い」とか一文で流されててキレたことが何度もあった。

 でもじゃあこのような「可能性はある」は文学部でならば通用したのか?
 
 勿論通用しないのだ。繰り返すけれど学問のレベルで考えるなら「正しい読解」の下地がなければ「自由な解釈」は意味をなさない。国語のプロによって作成された、合理的に解けば満点が取れるはずのセンター試験の選択肢で「可能性はある」に根拠もなく賭けてしまうようではいけない。そんな軟弱さは簡単に看過されてしまうだろう。

 というか、そもそもなんだけど……

 国語のテストって、作者の意図したたった一つの答えを云々とかいう面倒臭いものではなくて、基本的に「要約」ばっかりじゃなかったっけ。

 文中に全てのキーセンテンスは埋まっていて、それ等を抜き出して組み合わせれば、一応答えになるようになっているのだ。定期テストどころか、大学の二次試験の記述問題ですら概ねそんな感じである。センター試験の現代文だって「四つの選択肢のうちどの要約が一番適切か?」である。当時からそう理解していたなら、私も苦手意識を持たずに済んだはずなのに……

 「正しい読解」とは、大雑把に噛み砕いてしまえば「適切な要約」のことなのかもしれないと思う。そして「適切な要約」から「自由な解釈」が生まれる。並べ方が滅茶苦茶だったり、全く作中になかった要素をぶち込んだりした要約からは、当然に歪な解釈しか産まれない。

 国語のテストの本質が「要約」なのだとしたら、解答者の解釈なんてものはそんなに関係がない。いや、国語なんてどうせ要約なんだ、文中からパーツ拾って組み合わせりゃ合格なんでしょ、なんて味気ないものだと思われないためにこそ、クラムボンとはなんでしょう、下人の行方を考えてみましょう、みたいな絶対に文中から断定不可能に決まってる問いを授業で扱っているとすら言えるのかもしれない。

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