批評と感想
プロの文芸批評読むと、やー、ここまで私は賢いこと書けねぇわ、と思うと同時に、でも文芸批評を読んでもそこで紹介される作品を読んでみたいとはあんまり思わないんだよなぁ、と白けている自分もまたいる。半分ぐらいは僻みかもしれないけど、一先ず僻みを脇に置いて考えると、文芸批評はそもそも、これは面白いから是非読むべきだ、という具合に作品を語るものではないのだろうと思う。
文芸批評が語っているのは、恐らく、価値だ。
例えば私の前に、1500円のウィスキーと、2000円のウィスキーがある。この場合はその価値は値段という形で現れている。しかし、私が買うか買わないかにおいて値段というのは基準の一つに過ぎない。私が知りたいのは、どっちがどんな味で、どっちのほうが美味しいか、なのだ。
小説の場合は値段では価値が決まらない。だから批評達はここに価値付けを行う。その価値付けのアプローチは批評家の手法によって様々であるが、何れにせよ彼等/彼女等は文学的な教養や修練によって、その作品が如何なる価値を持つか/持っていないかを論理的に語ろうとする。たまにネット記事とかだと学生レポート以下の論旨から崩壊した批評が流れてることもあるけれど、ちゃんとしたプロの批評家ならそれなりに信頼に足るであろう。
けれど、私達は、別に価値があるから読みたいのではない。少なくとも私はそうなのだと思う。それこそ価値があるものを読みたければ、ノーベル文学賞受賞作家とか、評価の固まっている古典作家の作品を読めば先ず間違いはないのだから。既に部屋のなかには「読んでおくべき」本が山積みになっている。批評家がつい先刻価値付けたばかりのものなんて、どうしても後回しにされ続けてしまう。
私達は結局、それが面白そうだから、買って読むのだ。価値など後から自然に生えてくればいい。別に批評家がわざわざ価値付けなくたって『少女終末旅行』や『メイドインアビス』や『宝石の国』は名作だ。そして私達の後に来る者達は、面白そうだから、これ等を読むであろう。
だから私は、自分が作品を語るならなるべく「感想」の部分を大事にしよう、と思っている。ここがこう面白いから君も読めばいいと思うよ、と語りたいと思う。価値を語りたくなる気持ちは分かるけど、私達は価値で動いてはいないのだ。私達は感情で動いている。凡庸な私達は、だから、この感情のほうを上手く捕まえて行くべきなのだろうと思う。
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