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私達の愉快


 いまや私達には「言葉の主導権」がある。私達は偉い教授や批評家の言葉など気にせず、自由に作品を読んで自由に語ればいい。SNSでカンゴームが黒ギャル墜ちしちゃったよと笑いながら盛り上がればいい。その盛り上がりは『宝石の国』そのものの盛り上がりであり、新たな読者を呼び込み、新たな言葉の集積を産むだろう。

 私もまた「黒人女性としてのカンゴーム」という堅苦しい読み方には(我ながら)辟易している側の人間である。このような「批評的な」読み方は確かに『宝石の国』という作品の価値を高めることが出来るだろうけど、それよりももっと単純で愉快な「感想」がこの世には溢れていて、そしてそういう俗っぽい盛り上がりこそが『宝石の国』をここまで人気の作品にしている。価値は後からゆっくり定めていけばいい。私達は価値より感情で動く。

 でも、だからこそ、価値付ける能力のある人達には地道に頑張って貰わねばならないとも思う。

 私が国語教育が余りに「創造性」に傾き過ぎる危険性を憂うのは、私達の愉快を優越させた国語教育、つまりカンゴームを黒人女性としてではなくて黒ギャルとして「愉快に」読んだほうがより優秀になってしまう国語教育というのも、やっぱりどうかと思うからだ。いや、小中学生ぐらいならそれでもいいかもしれない。子供達に物語を愉快に読むことの面白さを教えるのは決して悪いことじゃない。でも高校の国語教育や大学の学問、そして批評家までもが愉快なカーニバルを踊っていていいのか?

 いしいひさいちは『現代思想の遭難者たち』でロラン・バルトを、のらりくらりと議論を横滑りさせてはぐらかす人物として戯画している。「読み」は唯一の意味を求める閉じられた営みではなく、完結することない<遊戯>=生産行為であるというのがバルトの思想なら、その影響化にあるという「学問」や「批評」は言葉遊びのような議論の横滑りのことを言うのだろうか? そしてそもそも、終わることなく愉快に「遊ぶ」ことにかけては、私達の数の暴力のほうがずっと苛烈であるはずだ。

 愉快は感情である。感情の戦いなら私達には数の暴力がある。教授や批評家よりも愉快な騒ぎを見せてやろう!

 よって学問や批評は、カンゴームの黒ギャル墜ちに盛り上がる私達に敗北するだろう。私達の愉快なお遊びが強くなれば強くなる程に、真面目な学問や批評は「詰まらなく」なっていくだろう。それを歓迎するか否かと、いう問題である。


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