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私達の街について


 純文学には「(文学的に)評価の高い経験」を描くことを求められる、という環境がある、と仮定する。そして私は私はそんな環境はぶっちゃけ願い下げだ。何故なら一介のアマチュア物書きである私にとっては、むしろ私達の凡庸さ、私達の退屈さ、そして凡庸で退屈な私達がそれでなお別に「普通」でもないというもやもやする矛盾こそが大事なのだから。私は凡庸で退屈だから、他人の期待には応えられない。面白いものを書こうとは思うけれど。

 私は、私達の街について書く。

 物語が、自分の知らない誰かの「経験」を私達に与えてくれるものだとするならば、私が物語に描くべきは、きっと誰も知らない、誰も気にしていない、或い私自身すらも良く知らないような、何処かのどうでもいい街に生きている誰かの「経験」なのだと思う。凡庸で、退屈で、けれどどうにも「普通」ではない私達の街の生活だ。だってそれが私にとっては最も興味深いものだもの。私が群馬県の前橋を訪れたとき、テナントがろくに入っていない、上階のほうはエスカレーターすら封鎖されてるような廃れた駅ビルを訪れたことがあった。テナントが入居しなければ、ただの無機質なコンクリートで囲まれた四角い穴である。その穴蔵に長机が並べられていて、地元の学生達が黙々と自習している。私はこの光景がとても面白かったのだ。前橋の無機質な虚無のなかに若者達が集まっている。彼等はここでせっせと勉強して、きっと東京の大学を目指すのだ。虚無から抜け出すために虚無の内側に集まっている……

 作家の外側から向けられる「(文学的に)評価の高い経験」への期待を挫くためには、私達は、この世界のあちこちに散らばっている凡庸で、退屈で、けれど「普通」でもない私達の街の生活にこそ、私達自身が価値を見出だして物語っていくべきなのだ。前橋の廃れた駅ビルなんて誰も期待しないだろう。そうだ、誰も期待してないから私が物語るのだ。私達の街について。私達の街が如何に「普通」ではないかについて。

 そして期待にそぐわない私達の街を、純文学という枠組みが受け入れないというのならば、私達はその外側に雑文学とでも適当に名付けた場所を作るだけのことだ。だから雑文学は、まともな中心を持たないことになるだろう。私は幸手の少女も足利の少女も前橋の少女も上中里の少女も斑鳩の少女も宇治の少女も東十条の少女もみんな等価に書くだろう。

 私達の街はこうも世界中にあるのだ。

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