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印象派的な


 印象派的な小説は可能だろうか。

 印象派という言葉もまた、例えば純文学とかロックンロールとかと同様になんだかふんわりした理念になっちゃってる気もするけれど、印象派には筆触分割(色彩分割)というわりと明確な技法的特徴が存在する。絵具は異なる色を混ぜれば混ぜるほどに段々暗い色合いになってしまう。しかしアトリエではなく戸外での制作を重視した印象派の画家達は、その明るい色彩を表現するために、絵具を直接混ぜずに隣り合わせてキャンバスに配置していくことで視覚的に色を混ぜ合わせるという方法を選んだ。この技法においては絵画は無数の「点」によって成り立つ。これを突き詰めていけば新印象派のスーラの点描になるし、ポスト印象派のゴッホの絵画だって眼を凝らせば無数の「線のような点」から成り立っているのが見て取れる。

 印象派の技法は、古典的なアカデミズム絵画の技法からは大きく逸脱するものだった。そして印象派はアカデミズム絵画を蹴落として西洋絵画のスタンダードとなり、その後の近代美術に多大な影響を与えた。印象派の登場は、西洋絵画の「描き方」を大きく変えてしまったのである。

 さて、これを踏まえて「印象派的な小説」の可能性を考えてみる。小説にはそもそも色も光もない。言葉は色や光を説明することは出来ても、色や光そのものにはなりえない。かつて私はモネの『印象 日の出』の実物を観て、まるで画面が光っているみたいだ! と衝撃を受けたことがあるのだけど、あの「視覚的な」感動を文章で再現するなんて可能なのだろうか。ああ、この朝霧に霞む港は、柔らかな光に満ち溢れている! と語り手がどんなに詳細に感動的に語り尽くしたところで、貴方はその色と光を実際に観たのだろうが、私にはその色も光も観えないのだよ、と白けてしまったらもうお終いである。

 印象派が明るく鮮やかな色や光を表現するために編み出された特徴的な「技法」であったとすれば、印象派的な小説もまた、明るく鮮やかな色や光を表現するための特徴的な「技法」でなければならないだろう。それが具体的にどのようなものなのか私にはまだ見当も付かないが、単に小手先の表現力でそれっぽい雰囲気を醸しただけでは駄目なのだ。印象派の絵のような景色を説明しても意味がない。印象派のように書かねばならない。新しい「書き方」の革命を目指すぐらいの心意気でなければ、私達は印象派的な小説なんて書けないのではないかと思う。


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