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創造性主義


 解釈という言葉は、いまや二次創作の分野で盛んに用いられている印象がある。解釈が違うと戦争が起きるらしいから恐ろしい。ここでは、解釈の勢力的な優勢/劣勢はあるだろうけれど、それだけ各々に自由な解釈が許されているということでもある。お前の解釈は八十点、お前の解釈はゼロ点、みたいな採点をする怖い先生なんていない。

 そう、自由な解釈というものは、基本的に創造性と結び付くことで(良くも悪くも)真価を発揮する。解釈が多様であるということは、その作品の規模がその分だけ大きくなっていくということだ。多様性が豊かである程に世界は膨らんでいく。その豊かな膨らみを肯定しようという現代の価値観は、私だって当然共有しているものだ。

 先に引用した投稿では、子供達の自由な想像力を伸ばしてあげる教育を提案していた。これは勿論、理念としてはとても真っ当なのだけど……しかし、投稿者がつい「ホラー小説家の道」とか「優れた創作となる」といった表現をしてしまっているように、自由な解釈の全面的な肯定は「創造性」にばかり引き寄せられてしまう危険性がある。

 投稿者は「ごんぎつねに続きはない」という意見をかなり厳しく批判していたけど、一体「その読者が終わったと思ったら終わり」というとある読者の読み方を全否定出来るぐらいに「創造性」は絶対的なものなのだろうか? 私は二次創作は読まないし書かない、作品はその内部で完結してるからそれで充分、という読み方は想像力の欠如なのだろうか? 私には、むしろそのような過度な創造性主義はかえって国語教育を歪めかねないとすら思ってしまう。

 ていうか……SNSでもう散々見掛けたじゃないですか、限られたテキストに過度の「創造性」を発揮して無茶苦茶なことを叫ぶ人達を……私だって、他者のテキストを引用したうえで言及した手前、勝手に自分で内容を書き換えてないかとても不安になりながらこれを書いている。創造性を伸ばす教育は素敵だけど、創造性そのものにはいつだって良し悪しがある。

 私達は、下手したら作者をも軽く凌ぎかねない読者の「創造性」を知っているが故に、その危険性にも気を付けねばならないはずなのである。無邪気に他者の作品を書き換え、書き足し、或いはねじ曲げてしまうことの快楽と、逃れ得ない責任について。私達はもう既に、如何に己の「創造性」を飼い慣らすべきかを子供達に教えねばならない段階になっているのかもしれない……


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