見出し画像

お祭りの屋台


 地元のお祭りというと、確かに市街地のほうでは商店街を丸ごと使うような大きなお祭りもあったけど、私の記憶にあるのは集落のお祭りである。白山神社と、今はもう更地になった私の母校である分校場。お祭りというよりか、実際のところは集落の年寄り達が御堂に集まって酒を飲み、子供達は親達に連れられて賽銭箱にお金を入れたら、境内に一つか二つだけ遣ってきた玩具の屋台で珍しいものを買って帰るぐらいのものであった。

 あんな過疎集落のお祭りにも屋台は出ていた。

 この世には、とても小規模な集落のお祭りにわざわざ出向いてくれる玩具の屋台があるのだ。子供も少なくて分校場が廃校になったような土地だから、玩具の売上だって高が知れているだろう。集落がお金を出して呼んでいたのかも知れないし、或いは長年の懇意で出店し続けてくれていたのかも知れない。

 何にせよ今から思い出せば、まさにあの屋台こそお祭りの日にだけ現れる不思議な妖精や妖怪の類いだった。田舎を離れて十年以上も経つけれど、今でもお祭りになれば来ているのだろうか。もう子供が殆んど来なくなった神社の境内の脇で、スピーカーから大音量で流され続ける時代遅れの音頭を聞きながら、ただ寂しく照明を焚いているのだろうか。

 私が創作の起点に「土地」を置くのは、その「土地」だからこそ可能な「登場人物」がいて、彼等の存在が物語の起点とか、或いは物語の動機になることが大いにあるからだ。きっと貴方は田舎の神社の境内に一つか二つだけ並んだ屋台の何処か神秘的な姿を知らない。そして私は、例えば前橋の駅ビルの空きテナントのスペースで自習する学生達を知らなかった。地方の寂れた駅ビルのある街ならこんな景色は当たり前かもしれないが、私が産まれ育ったのは駅ビルどころか最寄りの無人駅まで四キロみたいな田舎だった。

 私達にとって「外側」は漠然とした異世界だった。京都や大阪どころか、北陸の中心である金沢でさえ何処か遠くの世界だった。そもそも直接繋がりのない「外側」に、田舎者である私達はあんまり強く憧れていなかった。一方で前橋ならば、東京まではそれなりに遠くて、でもそれなりに近いという、中途半端な距離感である。そこそこに実現可能な未来として東京のような大都市と接続している関東圏の地方都市の少年少女は、間違いなく、私達とは違う何処かの「土地」特有の「登場人物」に違いなかった。私にはそれがとても興味深かったのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?