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期待に囚われる


 物語というのは、それが実体験や実話に基づくものであれ、完全に独立した虚構であれ、登場人物がその世界で体験したこと/思考したことの集積である。私達は遠い何処かにいる誰かの体験を読んでいる。そして私達は、物語で語られる登場人物の経験に「面白さ」を求める。祖父母の家に行ったら、恐ろしさ怪異に出会って祖父母に助けられた? ついさっき同じような体験談を読んだばかりだぞ?

 エンターテイメント作品ならば、作者は読者が期待する「経験」にきっと積極的に答えようとするだろう。ありきたりで他と被るような「経験」では飽きられてしまう。けれど、そんな辻褄の合わない「経験」があるわけないじゃん、そんな都合のいい「経験」には興味を感じない、みたいに突っ跳ねられてもいけない。作者は登場人物の「経験」を慎重に吟味しなければならない。

 エンターテイメントの創作者達は、娯楽のためならば当世に流行っている「評価の高い経験」をむしろ容赦なく取り入れていくだろう。そしてこの評価基準は時代によって変動するので、当時は盛んに評価されていた経験が、現在では著しく価値が下落していることもある。これが所謂「古い価値観」である。

 さて、では純文学は、どうだ?

 私達は純文学で描かれる「経験」に、外側から評価付けを行おうとしてはいないだろうか。私小説は、己の経験を赤裸々に晒すという告白行為そのものに独立した価値があるはずだ。が、私達は、私小説として語られるべき「経験」を勝手に期待したりしてやいないか? 私小説作家なんだから破天荒で滅茶苦茶な生活をしていて欲しいという期待を抱いてやしないか?

 例えばフィクションに登場する「沖縄の少年」や「東北の少女」を、私達は「埼玉の中年」や「茨城のおばさん」と等価に扱うことが出来ているだろうか。私達は、純文学作品であっても、いやむしろ純文学なる高尚でお堅いジャンルだからこそ、特定の土地に産まれた/特定の性質を持った登場人物の「経験」が描かれていること期待してやいないだろうか。私達は作品を読む前から、特定の「(文学的に)評価の高い経験」に囚われてやいないだろうか。

 以前、芥川賞候補が全員女性であったことについて、とある記者と選考委員とのやり取りがちょっと話題になっていた。このやり取りのなかで、女性作家の純文学が芥川賞を通して評価されることを「期待」していたのは、選考委員ではなくて、記者のほうだったのである……


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