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物語を可視化する

 世界に「眼に見えない物語」が溢れているとして、私達のような物書きには二つの道が与えられる。世間一般に流通している「眼に見えない物語」に便乗してみんなが自然に受け入れやすい物語を書くのか。それとも敢えて「眼に見えない物語」を逸れて、みんながまだ見たことのない物語を目指すのか。

 往々にして前者はより大衆文学的なアプローチ、後者はより純文学的なアプローチと捉えられるわけだけどなかなかそう簡単には行かない。エンタメ小説だってありきたりな物語に飽きた人々を刺激するための新奇さが求められるし、逆に純文学もまた「現代社会を反映するために」特定の……下手をすれば既にありきたりにすら思えるようなテーマを敢えて採用する場合もあるだろう。

 だだ大衆文学にせよ純文学にせよ、私達が創作物として「眼に見えている物語」を産み出すためにはどうしたって「眼に見えない物語」にも意識的にならざるを得ないだろうと思うのである。創作活動とは内面から溢れ出るものを書き散らかすだけの行為ではなく、むしろ自分の外側にある無数の「物語」と、自分の内側から産み出される「物語」との否応ない摩擦に、如何に適切な決着を付けるかが問われる行為なのではなかろうか。自分の外側で吹き荒れている流行や常識、叫び声や囁き声、最早テンプレートとなった筋書き、或いはもっと漠然とした、空気。

 私達は「物語」を可視化しなけらばならない。私達が普段なら「物語」とすら思っていない無数の言葉に相対しながら、誰が見たって「物語」でしかないものを世界に提示しなければならない。私達は己の創作物を通じて、世界に溢れている「物語」の趨勢に意図的に関与する。勿論流行に乗っかっても構わない。流行に抗っても構わない。流行に乗っかった振りをして別の「物語」の可能性を広げようとしたって構わない。大事なのは、普段は眼に見えなかったものを、ちゃんと眼に見える形に捏ね上げようとする確かな意志だ。何の意図もなく、ぼんやりと流行に流される/ふらっと流行から外れてしまうこと、作者自身が己の外にある「物語」も己の内にある「物語」もまともに観察することが出来ぬまま創作者を目指すのは、やっぱり余程に才能がない限りは難しいことなのだと思う。

 私達は世界の流れを作る側にいなければならない。流れの動力の一員でなければならない。それがたとえ大河の微かな一滴であろうと、いずれ枯れ果てる一筋であろうとも。


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