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小さな物語の語り手

 小さな物語はいつだって無数にあったのだ。たとえ大きな物語が本当に存在したとしても、私達の周りには無数の小さな物語は溢れ続けていた。大手のテレビや新聞がどんな「物語」を世間に流通させていたとしても、北陸の片田舎の小学生が放射冷却でかちかちになった田圃の雪のうえを走って(ちょくちょく「ズボり」ながら)登校していたというこの小さな物語が失効するわけではない。子供達は透き通るような氷点下の晴天をどたどたと不器用に走っていく。土手を慎重に滑り降り、たまに凍った雪を齧り、脚の遅い子を待ってからまた走り出して田圃の連なりが河によって途切れてしまうところまで。ただ私達の「空歩き」……私は母から雪の田圃のうえを歩くことをこう呼ぶのだと教わった……の記憶を、ごくローカルな範囲を越えて語るための手段や技術がなかったというだけで。

 しかし私はこの場を使って、そんな記憶を不特定多数に向けて語ることが出来る。祖父の狐火の話だってそうだ。祖父は孫を相手に語るしか術がなかったが、私はそれをネットに挙げてより広い範囲に語ることが出来る。詰まるところは「物語」の流通経路がすっかり違っているのだ。小さな物語が以前より格段に流通しやすくなった。流通経路の選択肢が増え、私達に向かってくる流通量も格段に増した。私は自分の小さな物語を誰かに提供しやくすなり、また私は誰かの小さな物語を提供されやすくなった。

 私は以前このような状況を「言葉の主導権」の変化と呼んだ。大きな物語が終わったというよりは、私達が大きさに関わらず様々な「物語」を自分達で語る/読むチャンスが格段に増えたのである。ここでは大きな物語と小さな物語が、ほぼ同時に、時にほぼ等価に流通する。誰かさん家の柴犬が変な顔をして、WBCで日本が劇的な試合を制して優勝して、ウクライナでは残酷な戦争が続いている。

 勿論この流通環境の変化には負の面もある。異なる世界の「物語」に感化されてしまい、その土地でしかあり得なかったかもしれない個性的な小さな物語の芽が潰えてしまうこともあろう。そのままであれば無害だった人達が「大いなる声」の一部に溶けて、攻撃的な言動を繰り返し始める危険性もあろう。私達の小さな物語は、一旦流通し始めるや否や、他の小さな物語やより大きな物語と競合することになるだろう。そして私達の小さな物語はTwitterのいいねの奪い合いに埋没してしまうかもしれない。


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