見出し画像

純文学は読んでおくべき


 純文学は売れないし読まれない。

 しかし、夏目漱石や芥川龍之介、太宰治や三島由紀夫、川端康成や安部公房や大江健三郎、そして村上春樹は普通に売れてるし読まれている。これ等の文豪と呼ばれる作家達の作品は容易に入手可能だし、歴史の厚みがあるので並大抵の大衆文学では敵わない程に広範な読者を獲得している。それこそ新潮文庫の歴代売上のトップ2が『こころ』と『人間失格』(どちらも600万部以上)というのも有名な話だろう。

 純文学は売れない、読まれないが、純文学の歴史を築き上げてきた文豪達の作品は売れるし読まれる。これはどういうことだろう? 

 NHKの100分de名著で紹介されたからって、安部公房の『砂の女』が本屋で山積みされているのは恐ろしい光景だと思う。どうやらこの世には「読んでおくべき」古典的名作というのがあるらしい。そして古典的名作とされる作品には、所謂ところの純文学に該当する作品はかなり多い。というかむしろ大衆文学で50年も100年も古典扱いされて売れて読まれている作品のほうが少ないぐらいかもしれない。

 夏目漱石の『こころ』が読めるなら、或いは川端康成の『雪国』や安部公房の『砂の女』が読めるなら、この世の大抵の純文学作品は普通に読めるだろう。私達は国語の現代文教育と受験勉強という形で、最低限のリテラシー教育を受けてきたのだ。なのに純文学は売れないし、読まれないのだという。要するに古典的名作以外の純文学は、読めないから買わないのではなく、別にわざわざ買って読む必要がないと思われているのである。

 もしも純文学が売れなくて読まれないとしたら、それは方法的な問題というより、むしろ理念や流通の問題と考えるべきなのだろうと思う。要するに世間一般における「読んでおくべき」純文学と「読まなくていい」純文学の格差が激し過ぎるのだ。芥川賞を受賞すれば本屋に積まれて売れて読まれるのに、大手純文学新人賞受賞作とか芥川賞の候補作になったぐらいでは文庫化すらされない。前者は「読んでおくべき」だが後者は「読まなくていい」。

 (有名な)純文学は読んでおくべきだ。ところで(有名でない)純文学は別に読まなくてもいい。純文学はそんな奇妙な二律背反を抱えている。ならばこの極端な流通環境から「読まなくていい」純文学を救い上げるにはどうすればいいのだろう? いっそ純文学なんて名乗らないほうがマシなのだろうか、とすら私は考えてしまう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?