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傘立ての鍵


 ここでリアリティについて、非常に面倒な二面性にぶつかることになる。同じようなことが何度も都合良く起こるなんてリアリティがない。祖父母の家に行ったら怪異に出会う話が幾つもあるのは不自然だ。しかしその一方で、この世には「これは良くあることだ」「これは良く起こることだ」「これは良く感じることだ」という意味でのリアリティもある。

 そしてこの「良くあること」「良くやること」「良く感じること」から逸れた途端に、この物語にはリアリティがないという批判を受けてしまう場合がある。この登場人物は「普通なら」こうは行動しないだろう。この登場人物は「普通なら」こうは考えないだろう。こんな理に適っていない「普通ではない」行動や思考はリアリティがない。

 先日私は、スーパー銭湯の傘立ての鍵をいちいち閉めるのが面倒で(私は物忘れが酷いので傘を忘れて鍵だけ持って帰ってしまう可能性がある)鍵を掛けずに入店したら、見事に傘を盗まれて結局コンビニで600円とかする傘を買い直す羽目になってしまいました。さて、これはリアリティがある出来事だろうか。「傘を盗まれた」展開としては余り頻繁に反復されていない固有性のある筋立てである、とリアリティを感じてくれるだろうか。或いは、傘立ての鍵を閉めるなんて人間として普通のことで、そんなことも出来ない登場人物はリアリティがないと思われるだろうか。

 「田舎の祖父母の家に行って怪異に出会う」という展開だって、そもそも怪異に出会うのは「普通なら」都会から遠く離れた神秘が未だに残る田舎だろう、そして怪異の対処法を知っているのは「普通なら」その土地に対して経験豊富な祖父母であろう、というリアリティへの配慮が最初にあったんではなかろうかとも思う。それが何度も不自然に繰り返し反復されるから疑わしいだけで、舞台設定としては「普通に」理に適っているはずなのだ。

 私達が物語にリアリティを追求するためには、容易に反復され得ない固有の経験を語るべきなのだろうか。それとも広く共感を呼び起こす普遍的な経験を語るべきなのだろうか。或いは、その両者の味加減次第なのだろうか。これに加えて「普通なら」こう行動する/こう考えるというこの「普通」が、そもそも万人によって基準が違っているという問題もあるだろう。

 貴方は傘立ての鍵は必ず閉めますか? 鍵を閉めるのは「普通」ですか? 鍵を閉めない人間は、貴方にとってリアルですか?

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