見出し画像

正しい読解


 『ごんぎつね』に関する某ネット記事に批判が集まっていた。試しに読んで見たのだけど、幾つかの理由で気分が悪くなったし、あれこれ粗捜しするのも面倒なので今回は触れないことにする。

 この記事への反論としては、下に引用した一連の投稿が多くの反応を集めていた。

 しかしこの一連の投稿……ここまで私が書いてきた議論と見事に衝突している。投稿者はいわば「正しい読解」と「自由な解釈」の対立を見出だして、前者を重んじる国語教育に疑問を呈しているように思う。一方で私は『やまなし』と『羅生門』を挙げて、分かり得ないよう創られたものに対する解釈の独走に疑念を呈した。多分これは私が一人の実作者として、作者の残した「技法」に対して敬意を払うべきだと思っているからかもしれない。

 一連の投稿は非常にためになる内容だと思う。けれど同時に、日本の国語教育は大学教育の「文学研究」と解離していて、かつ「文学研究」は「文学批評」と同程度に自由な読解を認めているか? ……というとかなり疑念は残る。

(注:以降の内容は勿論、例のネット記事の擁護では微塵もありません。教育というジャンルは大袈裟に世間の不安を煽りたがる人達が集まりやすいよな……)

 例えば「鍋で煮られているのは母親」という解釈は卒論で認められるだろうか。否、まず認められない。「文学研究」が公的な学問である以上、そこで認められる解釈の多様性は、あくまで「正しい読解」を通して客観的合理性を見出だせる場合においてのみだ。実際に大学時代、教授達が生徒達にまず要求したのは「正しく読むこと」だった。とある演習で、君はこの人物は自殺未遂をしたと解釈しているけど、自殺未遂だったという断定する記述はなかったよね? そこを前提にして議論を進めていいの? と教授に突っ込まれた生徒がいたのを覚えている。

 文学研究における解釈の自由度というのは、これまで積み重なってきた先行文献の厚みのうえにやっと成り立つものなのだろう。徹底的に「正しい読解」が可能な範囲については議論を尽くしたうえで、それから解釈の広がりに眼を向けるのだ。そもそも文学が公的に運営されている学問の一つである以上、明らかに合理性のない「間違った読解」を許容するのは、それこそ物理や化学の論文で間違った式を乗せるとの同じぐらい不誠実なことである。新しい答えを導くのが目的だったとしても、そこに到るための式そのものは正しくなくてはならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?