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文体の一部

 ニコニコ大百科は競馬関係記事が非常に充実していて暇潰しがてらに読んでいるのだけど、現役の有名競走馬の掲示板ともなるとどうしても持論語りとか対立煽りとか誹謗中傷とかが現れてきて荒れがちだ。最近グッド/バッドの投票ボタンが出来たのだけど、この世にはバッド評価を集めるために掲示板に書き込む人達がおるんやなぁとちょっと悲しい気分になった。

 さて閑話休題、こういう匿名掲示板には、特有の文体のようなものがあるのだろうと思う。そして外側にいる私達には同じような文体で匿名掲示板に書き込んでいる人達の区別が殆んど出来ない。何だかみんな同じに見えてしまう。もしかして、活発に議論されてるようでいて、どの掲示板もほんの数人しか書き込んでいないのではないか?

 匿名の空間でみんなと同じ文体を用いるのはとても効果的だろう。文体の一部となることで己の責任から逃れつつ、いわば大いなる声の見えない一員となって己の声をより遠くまで響かせる。「大いなる声」にとって大事なのはいつ誰が何処で喋ったかではなくて、声の大きさと数量である。より大声で、より多数であるほうが強い。

 同じような現象はTwitterでも起きる。Twitterも半分匿名みたいなものだし、いや本人の名前を名乗っていたって、例の作家のように「大いなる声」の一部でしかないようなことしか呟かないひともいる。例の作家に比べたらフォロワー数の多いそこそこ著名であるはずのアカウントでさえ、同じような呟きをRTして、同じような内容のことを物申して、同じような文体で怒りを露わにしていたりするのを見掛けることがある。どれだけ著名なアカウントだとしても、同じ文体の一部となって同じようなことを繰り返しているだけならば、彼等は単なる「大いなる声」の拡声器でしかないではないか。

 例えば人気のゲームや話題のアニメなどについて、私達がSNSのうえで「大いなる声」の一部として同じような文体で盛り上がっているのは、それが楽しくて面白いこと、健全で健康的なことである限りは構わないと思うのだ。それが殆んど他人を傷付けない娯楽的なムーブメントである限りは。しかし私達がちゃんと真面目なことを喋ろうとするならば、その真面目さをだだ単に「大いなる声」の一部として、同じような文体で同じようなことを語るだけに費やしてしまっていいのか。私達はもっと自分自身の声で喋りたいと思っていたのではなかったか?


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