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大きな物語の意志

 詳しいことは知らないが、現代とはかつて世界を覆っていた大きな物語が終わり、小さな物語が無数に乱立している世界らしいのだ。ただこれは、例えば東西陣営の崩壊という世界情勢的なことであったり、或いは個々人の趣味嗜好の細分化みたいな意味でなら何となく分かるけど、でも私達を取り巻いている「物語」がそんな小さく細分化しているのかといえば、やはり疑問がある。大きな物語が存在しないならば何故、新聞やニュースは特定の事件や社会問題をあんなしつこく追求するのか? 何故SNSでは特定の事件や社会問題について沢山の人達が同じような文体で同じような内容で物申し続けているのか?

 確かに私が小学生とか中学生とかだった頃……まだみんなガラケーしか持ってなかった頃……に比べれば、もう特定のコンテンツやメディアが独占的に世間を支配するような環境ではないとは感じる。テレビなんて観なくても問題ないし、流行りのあれこれなんて別に知らなくても困らない。けれどその一方で、特大ヒットして社会現象になったような「誰でも知ってる」作品は現代でも現れている。そして私達は特に忌避感もなくその流行に乗っていく。みんなが『鬼滅の刃』を読んで、みんなが『Lemon』を聴いて、みんなが『ウマ娘』をダウンロードしていたのだ。

 インターネットやスマートフォンの普及に伴ってコンテンツの流通量、流通種類、流通範囲、流通速度などは確実に拡大しているから、私達はどんどん流れてくる沢山の選択肢のなかから自分達が好む「物語」をそれなりに選べるようになった。しかし何もかも自分の意志で「物語」を選べるわけではない。この世には特定の「物語」を積極的に流行らせようと画策し、そしてその情報を世間に流通させる手段や技術を持っている人達がいる。私達は彼等が世間に流通させている「物語」の情報から完全に逃れられるわけでもなかった。その「物語」は単なる娯楽作品であることもあるし、世間の様々な流行アイテム、或いは道徳や倫理やイデオロギー、さらに陰謀論であることすらある。

 それが大きな物語にせよ、小さな物語にせよ、そこには「物語」の書き手とそれを流通させる送り手がいるはずである。そして個人的な「小さな物語」ではなくもっと壮大な「大きな物語」を世間に流通させたいと野心を抱いている人達だっているはずだ。そういう意志がある限り、大きな物語はいつだって何処かで語られ続けるのである。


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