量と質の相克
幾ら同人誌即売会や執筆サイトの存在感が増したと言ったって、残念ながら純文学はそのどちらにおいても注目度の高いジャンルではない印象がある。SNSと相性がいいとは言い難いし、新しい読者や作者を牽引していくようなムーブメントもなかなか起こらない。青空文庫で古典的な近代作家が無料で読めるようになったのなんかはプラスだろうが……総合的に言えば、恐らく現代にあっても流通量の伸びが余り芳しくない分野の一つなのだと思う。
創作者側にとってみれば、オルタナティブな流通経路が拡大していないとなれば、他の一芸にも優れているとか、或いは何らかの特別なコネでもない限り、これまで通りに大手純文学新人賞を獲得して出版流通網へと参入するのが一番真っ当だということになる。すなわち五大文学賞にせいぜい+αという非常に狭き門を目指すということ。さらにそこから……詳しい事情を知ってるわけではないけれど……五大文芸誌+αの掲載枠や書籍化枠、文庫化枠、文学賞枠などの限られた枠の奪い合いが始まるのだろうと思う。
これは好意的に捉えるなら、流通する純文学を厳選してその質を維持しているとも言える。しかし純文学が限られた読者にだけ届けば良かった時代から……つまり「言葉の主導権」を持っていたごく一部のインテリや文化的エリートにさえ届けばよかった時代から、私達のような普通の人達にも多様な発信/受信手段が与えられている時代へと移行してしまった現代においては、純文学の流通枠と流通量の少なさは充分に致命的だと思うのだ。他のジャンルに比べて流量してないということは、他のジャンルに比べて相対的に語られていないということである。他のジャンルが私達の無数の言葉をどんどん蓄積していくのに対して、純文学はこれまで通り(その質は高くとも)限られた言葉しか貯まっていかない。量と質の相克といえば聞こえがいいけれど、相対的に語られなくなるということは相対的に忘れ去られやすくなるということである。
そして純文学の流量枠がこうも限られているということは、流通側が純文学に求める「物語」を選別出来てしまうということでもある。何が純文学なのかを選定する権利は作者ではなくて流通側にあり、そしてもしも流通側が純文学に対して何らかの「大きな物語」を求めていたとしたら、では純文学は外側から期待されている「大きな物語」から自由であり続けることなんて出来るのであろうか……?
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