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普通という呪い


 純文学なるものが、仮に私小説的リアリズムを系譜を引くジャンルであると考えるならば、当然にリアリティというものは非常に重要な意味を持つだろう。大衆小説のような都合が良くて通俗的な展開は避けるべきだ。登場人物は理に適った行動や思考をすべきであり、彼等の言動や物語世界の情景については、限りなく正確で丁寧な描写を心掛けねばならない。

 しかし私はここで躓いてしまうのだ。物語の登場人物達はごく「普通に」リアリティを持って振る舞わねばならない。でも私は、この「普通」なるものがあんまり良く分からないのである。これは単純に私の社会に対する観察力の乏しさに起因するものであると同時に、そもそも私は、むしろこの「普通」から逸れてしまう人間こそ、物語として描くに足る人物であると考えてしまう傾向があるらしいのである。

 これは別にマイノリティ/マジョリティの対立においてマイノリティを優先して描くべきだという意味ではない。むしろ、自分達がどうせ取るに足らないマジョリティの末端の一人に過ぎないからこそ、あんまり「普通」ではない己の不可解さに向き合ってしまう私達のこの漠然とした気分を描かねばならないということである。

 私が、自分が純文学の書き手であるとどうしても断言出来ない理由はここにある。私は大衆小説における、都合の良い反復をすらも敢えて積極的に許容することで生産性を向上させていくアプローチが出来る書き手ではない。けれども私は、絶対的な固有性、孤独なまでに確立された物語世界の芸術的構築を成せる書き手でもないし、そしてまた人間の「普通の」言動を限りなく理に適った正確な筆致で捉えることで現実の輪郭をなぞるような丁寧な仕事が出来る書き手でもない。純文学が求めるリアリティは私には荷が重い。私の描く物語は、きっといつも中途半端だ。

 でも私は、これがたとえ単なる泣き言に近い言い訳だとしても、この中途半端さこそを書きたいのだ。

 私達はこんなにも平凡で、凡庸で、なのに何故か「普通」ではない。私達はあんまり「普通」ではないので、どうも純文学には向かない。それでお前は「普通」を知らない間抜けな馬鹿だといちいち詰られるのは面倒だもの。人間の心理なんて知ったことか。私は私のこの気分しか知らないのだ。

 だから私は敢えて雑文学という言葉を用意するのである。「普通ならこうする」「普通ならこう考える」というリアリティの呪いから逃亡するために。


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