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車道が邪魔


 先日、埼玉県川越市で行われる川越まつり(川越氷川祭)を観光した。ユネスコの無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」の一つにも数えられる関東でも有数の祭礼で、祭り囃子とともに市街地を曳き回される山車が一番の見所である。しかし今回の私の目的は、重要伝統的建造物群保存地区にも指定されている蔵造りの町並みを歩くことだった。

 この蔵造りの町並み、歴史ある重厚で頑健な蔵造りの建物が並ぶ埼玉有数の観光地なのだけど、メインストリートである川越一番街は車通りが結構激しくて、景観に良くない影響を与えているのが問題だった。これ程に有名な観光地にしては歩道がかなり狭い。以前一度訪れたときは、まさに車道が混雑する時間帯で、自動車が並んだら向かいの歩道への横断すらも困難だった。こんなにも見通しの悪くてはこの世界の主役は続々と流れ込んでくる自動車の行列だ。こうも自動車ばかりじゃ情緒がねぇや、とがっかりしてしまった記憶があった。

 しかし川越まつりともなれば事情が違う。大型の山車を曳き回すので、市街地のかなりの範囲が交通規制で歩行者天国になっている。川越一番街も例外ではない。つまり祭礼の期間中なら、絶好の位置から景観を楽しめるのではないか? この私の目論みは的中し、かなりの人混みではあったものの、道路の中央を悠々と闊歩して小江戸川崎の壮麗な蔵造りの町並みを存分に堪能することが出来た。

 観られる景色、と書いて景観とするならば、何処から、或いはどのように景色を「観る」か、というのは重要な問題だ。「観え方」が狂ってしまってはどんな素敵な景色も私達には届かないのである。

 けれどこれは逆に考えれば、車通りが激しくて見通しの悪い景色もまた一つの「景観」なのである。

 物書きの端くれとしては、期待してたのにちょっとがっかりしてしまう「景観」にこそ、物語が広がる可能性を期待してしまう。完成された美しい景観では最早人間が立ち入る隙がない。その完成を私達が迂闊に崩せなくて持て余しかねない。けれども川越の蔵造りの町並みは、歴史ある壮麗な景観が普段は不躾に「遮られている」からこそ、私達のような凡庸な人間達の物語が乗り込める余地がある。

 観光地としてなら、川越まつりに合わせて川越を訪れるのが絶対に正解だ。でも車通りが激しくて景観を損ねてる川越のほうが物書きには有り難いのだ。要するに私は、こんな不完全を求めて下手くそな旅徒然をしているわけなのである。

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