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バナナ・アルバムを語る
売れるのが偉いか、といえば、そうとは言い難い。けれど一つの真実として、商業的な需要がなければ世間には流通しない。流通しなければ読まれないし評価もされない。
The Velvet Underground and Nicoという1967 年のアルバムがある。御存知 Andy Warholのバナナのジャケットが有名な、歴史的名作と呼ばれるアルバムである。んで当時は全然売れなかったそうである。50 年以上も前に全然売れなかったアルバム、しかもタイトルも内容もアングラじみた如何にも万人受けしないこのアルバムを、当時高校生ぐらいだった私は福井県の片田舎の地元の本屋さんの窮屈なCDコーナーで普通に購入したのだった。
「売れる」には色んな要因がある。それこそ強力なメディア戦略によって売れた作品は、メディア展開が落ち着いた途端に世間から忘れられてしまうかもしれない。瞬間的には大量の読者を獲得出来たとしても、その後も継続的に語り続けられなければ次の人達に名前を覚えて貰えない。逆に瞬間的に流行ることは出来なくても、十年も二十年も継続的に語り続けて貰えたならば、そこには新しい読者と需要が産まれる可能性が生きていることになる。
バナナ・アルバムは当時全然売れなかったらしいけど、その後 50 年以上も世界中で語り続けられている。雑誌で、ブログで、或いは口頭で。そしてその情報に関心を持った新しいリスナーがそれを買い求めるだろう。そういう需要があるから福井県の片田舎ですら普通に売っている。私もまたこうやってバナナ・アルバムについて語っている。
売れる、というのは確かに大事な評価点である。けれどそれが評価の核心に座ってしまうと、売れなくなった途端に一気に作品の価値が暴落してしまう。作品の価値を保ち続け、そして「売れ続ける」ためには、何よりその作品が長期に渡って語り続けられなければならない。売れる、語られる、売れる、語られるのサイクルが安定したとき、その作品は古典的な名作として定着するようになるだろう。
そして前回述べたように、今や「言葉の主導権」は私達にある。作品を後世に語り続ける主体は私達だ。批評家や専門家の推薦の言葉だけが流通する時代ではないし、批評家や専門家のように語る必要も、批評家や専門家のことを気にして語る必要もない。ただ私達は多過ぎるが故に、私達の言葉は整理しづらくて消えやすい。それをどう集積していくかが課題である。
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