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狐火


 私がまだ幼かった頃、たまに祖父母の寝室で一緒に眠ることがあって、電気を消した天井を見上げながら祖父の昔話を聞いたりしていた。大抵の内容は忘れてしまったけども、一つだけ覚えている話がある。

 祖父の祖父が日が暮れた山を歩いていた。そこに突如として火の玉が現れた。私の御先祖様は、これは狐火だ、逃げたり追い掛けたりしたら化かされるぞ、と腹を括って一歩も動かずその火の玉と睨み合った。この睨み合いは一晩に及び、とうとう夜が明けると、火の玉はふっと消え失せてしまって、代わりにコーンと鳴きながら狐が一匹逃げていったのだという。

 今から思い出せば、他愛のない、然程珍しくもない民話の類いである。けれど当時の私にはとてもリアルな昔話に思えたのだ。それはきっと、私の何倍も生きていて、私の何十倍もの経験を経たであろう北陸の山奥の農家に生まれた祖父が真面目に語る昔話であったからだ。まして祖父の祖父の時代のことなど私には想像も付かない。狐火の一つぐらい本当に現れたのかも知れない。御先祖様が「山」を歩いていたというけれど、これはきっと「山道」ではないだろう。私の知ってる「山」は舗装もされず踏み固められた地面の筋があるだけだ。そこに突如火の玉が現れる。それはあり得て然るべき事象のようにすら思える。

 すると私はふと考えてしまう。

 リアリティというのは結局、誰が、どのように語ったかによって決まるのではないか。内容そのものは他愛ない。けれどあの田舎の山奥で何十年も生きた祖父が、電気を消した寝室で孫に向けて物語るからリアリティがあるのだ。私が飲み会の席で話したって駄目なのだ。これは一介の物書きとして重要なことでもある。私達は、現実にあり得るような「内容」を目指すのではなく、現実ではきっと起こらなくても、それがまるで現実であるような「語り手」の振る舞いと「語り方」の技術を目指さなくてはならない。でなければ私達は永久に、寝室で孫に向かって昔話を物語る祖父のあの昔話を越えられないだろう。

 そう、だから、私は真面目にこういうことを語らねばならないのだ。一体「寝室で孫に御先祖様の狐火の昔話をした祖父」なるあやふやなものの実在をどう貴方に証明すればいい? そんな人物は本当にいたのだろうか?

 だから私に必要なのは祖父の実在を証明する写真や書類や録音ではなくて、私という「語り手」が、如何にして「語る」かというそれだけの問題なのである。

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