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評価の高い経験


 筆記試験よりも経験を重視すべきだ、という乱暴な主張に対する様々な反論意見が一時期どばどば流れていた。こういう話題は最早反論されているはずの最初の議論が何処にあったのかすら分からなくなってしまうものだ。私も面倒なので詳細は調べない。

 取り敢えず反論意見のなかでも興味深かったのが、評価の高い経験と評価の低い経験を一体どのような基準で判断するのか、結局は一部の人々が独善的に考える「評価の高い経験」にアクセスすることが出来る(大抵は文化資本に恵まれた)人達が優越するだけじゃないのか、というものだった。或いは「評価の低い経験」だって、応用次第では今後の人生の役に立つことだってあるはずだろう。そういう応用可能性まで隙なく拾い上げられるような客観的な評価システムなんて構築可能なのか?

 筆記試験が完璧に平等なシステムであるとは流石に言えないけれど、しかし北陸の豪雪地帯で産まれて大雪のなかをスキーウェアを着込んで命懸けで小学校まで登校していた私みたいな世間知らずの田舎者が、しれっと大阪の国公立大学にまで紛れ込めたのは、筆記試験の点数がちょっとばかり良かったお陰に他ならない。雪囲いの設営や屋根雪の雪掻きなんかは「評価の高い経験」になるのだろうか? 自分の身長より高い雪の壁、自動車も擦れ違えなさそうな狭い雪道で向こうから遣ってくる怪物のような除雪車の恐ろしさを私は知っている。さて、この経験は何点になる?

 そして田舎を離れ、ずっと都会な大阪での一人暮らし生活を「経験」したことで私は、とても多くのものを得た。その後の関東暮らしだってそうだ。私の場合は筆記試験の点数が「経験」の前にあるのだ。筆記試験がなければ、その後の「経験」の選択肢がずっと狭まっていたであろう子供はきっと少なくない。あの何もない田舎で経験出来る事柄なんて高が知れているのだから。

 さて、私達は独善的な「評価の高い経験」を優遇する風潮には、こういう具合で色々と異を唱えることは出来る。

 けれど、ところで日本文学には私小説なるものがあるではないか。私小説といえば「私」の経験や内面を赤裸々に晒け出すことを一つの特徴とするジャンルである。いや、私小説に限らなくてもいいや、エッセイとか、作文とか、或いはTwitterでさえ構わないのだけど、私達は誰かの書いた文章を読むときに、身勝手に、独善的に、一方的に「評価の高い経験」を筆者に求めてやないだろうか?

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