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名作の粗筋だけを集めた本


 随分と前だけど、Twitterでとある方が「名作の粗筋だけを集めた本」を読んで教養を得たようなつもりになるのってちっとも教養的じゃないよなぁ、と呟いているのを見掛けた。インスタント教養とでも言うべきか、ごく表面的な知識だけを集めた書籍を手っ取り早く消費していくトレンドについては私も懐疑的なのだけど、ただ私自身もそういうインスタント教養への欲望がないわけではないから、余り偉そうなことは言えない。あくまで「入門」でしかない知識を「教養」として売り出す風潮は好ましくない、程度に言葉を濁しておこうと思う。

 ただし「名作の粗筋だけを集めた本」に関しては、やはり教養として扱うには不充分だと思う。ここで大事なのは「粗筋」の部分だ。粗筋とは、詰まるところは物語の内容の要約であろう。けれど一つの文学作品においては、物語の内容というのは部分的なものでしかない。

 大学時代に受けた映画論の講義のなかで、物語を構成する重要な要素として「内容」と「言説」と「語り手」の三つがあると習った。流石に物語論における厳密な定義までは説明出来ないけれど、取り敢えず大雑把な理解として物語というのは「何を語るか」「どう語るか」「誰が語るか」の三要素から成り立っているということだ。

 例えば、同じ自動車事故現場についての「語り」であっても、中学生の女の子が語る場合と、七十代のお爺さんが語る場合と、ニュースキャスターが原稿を読む場合とではどれも全然異なるものになるだろう。更に言えば、同じ中学生の女の子が同じ事故現場について語っているとしても、現場でインタビュアーに語る場合と、現在進行形の一人称小説として語る場合と、数年後に回想として語る場合とではやはり全然異なるものになるだろう。

 誰がどう語るか、によって「物語」は非常に多様なバリエーションを産み出す。作家は誰が、何を、どう語るかを吟味し取捨選択したうえで作品を纏め上げている。ましてや名作ともなれば、内容以外の部分でも何らかの高い評価を受けていることだろう。しかし内容の要約という側面が強い「粗筋」には、そういったバリエーションを乱暴に均してしまいかねない危険性がある。交通事故があったという内容のみが重視されてしまうとき、そこには中学生の女の子の言葉も、七十代のお爺さんの言葉も掻き消えてしまいかねないのである。私達はそんな中途半端な知識を「教養」としてしまっていいのだろうか?


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