見出し画像

粗筋が書けない


 自分の作品の粗筋が書けない。

 サークルの宣伝が下手なのは自覚してるのだけど、その一因になってるのがこれである。粗筋が説明出来ないから宣伝文句が変な方向に走って自滅する。そのうえ、説明出来ない部分を理念的な言葉で補ったりするのは欺瞞なんじゃないか、というスタンスなので差し障りない綺麗事も吐けない。ブース設営のセンスもないし、常駐してるのはいつも退屈そうな顔をした無駄に背が高い猫背が一人、もしかしてなんか得体の知れないサークルと思われて怖がられてんじゃないか? とすら考えてしまう。

 何故粗筋が書けないのかというと、私は結局のところ、何を語りたいかよりもどう語りたいかのほうが大事だからなのかなと思うのだ。こんなもの、言い訳に近いものではあるのだけど。私は、物語が存分に「終わる」ために二万字でも三万字でも掛けてひたすら準備を積み重ねる。或いは、そもそも粗筋として語ってはいけない仕掛けそのものであったりする。物語の「終わり」までに何処を歩いたのではなく、物語の「終わり」に向けてどう歩いたのかが私にとってはきっとより大事なことなのだ。私は殆んど習性じみたものとして、岡崎京子の名作『リバーズ・エッジ』における「ぱちんとはじけるように起こるのだ」の一節へと行き着いてしまう。

「それは実にゆっくりと徐々に用意されている」

 いや、私にだって書きたい「もの」はあるのだ。けれどそれは、自分の知らない街を歩いて感じた「面白さ」のようなものである。例えば東十条駅とか東十条マンションとか、近江八幡の八幡堀とか多賀大社前駅とか。私は私の知らない街で感じた「面白さ」のなかに登場人物を無情にも放り込み、この場所だから可能な物語の「終わり」にむけて文章を詰めていく。京浜東北線によって上下の土地が分断された武蔵野台地。八幡山の麓にあって不自然に激しく岩肌が抉れた名も知らぬ小山。

 私は、私の作品がどう作られたかについて語ることは出来る。しかし、あなたは何を書いたのか、と聞かれると詰まってしまう。私はモデルにした土地を物語に都合が良くなるように散々改造してしまうから、モデルにした土地を前向きに持ち出すのも憚られてしまう。ぶっちゃけ風評被害になりかねないし……だから、実際に私の作品を読んで頂いて、そこにいる彼女達がどのように「終わり」に直面するのかを味わってほしいんです、なんて消極的な宣伝をすることしか出来ないのであった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?