見出し画像

「客観性」

 文学の「研究」は、大前提として客観的な議論となっていることが求められる。筆者の主観に頼ってはいけない。曖昧な表現で濁してもいけない。先行文献をきちんと整理しつつ、正確な読みによって客観的に新しい事実を示さねばならない。

 さて、例えば日本文学部の生徒が、卒論で某有名ライトノベルを扱いたい! と考える。しかし、その某有名ライトノベルは研究に値する作品なのか? という壁に彼はぶち当たるだろう。ライトノベルだから先行研究は少ない。有名だからといってまだ評価は定まっていないし、時代からの影響/時代への影響を判断するにも時期尚早だ。「有名な大衆小説」なんて大量に存在するわけで、そのうちの一つを恣意的に(=主観的に)選び出して研究することに一体何の意義がある?

 文学もまた「研究」対象である以上、こういう「建前」があるのは仕方ないことではある。この建前が故に「文学研究」は、著者が恣意的に対象を選んでよい「文学批評」と区別されるのだ。仕方ないことなのだけども、けれどこれは裏を返せば、客観的に評価が定まっていて先行研究が充実している作家であれば、別にどんな些細な作品であっても研究対象にして問題ないということを意味している。

 つまり某有名ライトノベルは扱えないが、芥川龍之介や太宰治の原稿用紙十枚ぐらいの小品であれば「建前」はクリア出来るので、卒論でも扱って構わないのである。

 この「建前」こそが、純文学の権威を保証しているカラクリの一つでもあるのだろう。修士や博士なら兎も角、四年間で卒業する文学部生達が「選べる」作家というのはそんなに多くない。そしてその多くが広義では純文学に分類されるような作家達だ。「選ばれた」作家達は何十年にも渡って論じ続けられ、詳細に、緻密に、重箱の隅まで突かれるだろう。原稿用紙十枚の作品に何万字、何十万字が費やされる。そしてその大量の言葉の集積が「客観性」となり、次の何十年も語り続けられる理由となるのだ。

 大学時代に教授が一冊の本を持ってきて、これは夏目漱石の『三四郎』を論じた参考文献のタイトルだけを収集したものです、と恐ろしいことを言った。このタイトルだけが並んだ一覧こそ「客観性」なのである。勿論私達はこの研究の蓄積に対して一定の敬意を払わねばならないだろう。でも一方でもしかして「客観性」というのものは、わりと慣習的な仕組みでしかないのではないか? とふと考えてしまったのだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?