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雑文学宣言


 純文学の問題は、純文学と大衆文学の外側には「何もあり得ない」ということだ。

 これはとても非対称な問題である。大衆文学でないものを、純文学以外の何らかの名前で呼ぶことはそんなに難しいことではないだろう。それこそ映画や音楽や漫画と同じように、非大衆的な読者を対象にしたサブカル文学、アングラ文学、オルタナ文学なんて幾らでも想定出来るだろう。

 これ等は大衆的ではないけれど純文学である必要はないし、そもそもそんな肩書きなんて鬱陶しいだけだろう。これ等の作品は非大衆的ではあれ、軽薄で下品で俗っぽい要素を含んでいても構わない。そういう行き過ぎた安っぽさが魅力である場合すらある。

 けれど純文学でないものは、大衆文学か、さもなくば純文学の「成り損ない」にしかならない。

 純文学は非大衆的ではあれ、サブカルチャーやアンダーグラウンドやオルタナティブであってはならない。純文学は芸術的価値や社会的意義を有していなければならない。高度な批評に耐え得る文学的強度を有していなければならない。純文学は時代を映す鏡としての役目を果たさねばならない。

 時代的な価値や意義が認められる限りにおいて、サブカルじみた、アングラじみた、オルタナじみた作品が純文学として「認可」される場合もあるだろう。中間小説だの越境小説だのという混淆を認める場合もあるだろう。しかしこの「認可」を弾かれた非大衆的なあらゆる小説は、純文学からすれば「成り損ない」でしかなくなってしまう。

 純文学の古典的な方法論が、閉鎖的な流通経路が、なりより高尚な文化的理念が、純文学と大衆文学の「外側」を容易には許容しない。いや、そんな「外側」を許容したら、純文学なんて捻ねくれたエリート気取りの物好きどもが持て囃す愛玩物以外の何物でも失くなってしまう。

 だから所詮は詰まらない「成り損ない」の一人でしかない私は、大衆的で通俗的とはいかないけど、純文学の厄介な「認可」なぞいらない「場所」を自分のために用意しなければならない。サブカルやアングラって程に極まってないけれど、取り敢えず純文学的な価値だの意義だのからは自由な、自分の書くべきものを書くための場所だ。

 価値やら意義やらよりも、勿論通俗なる大衆よりも、もっと個人的な「書くべきもの」を優先するための文学。だから別に適当にオルタナ文学とかでも良かったのだけど、敢えて微妙な紛らわしさを残すために私は、



 ここに雑文学を宣言する。


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