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方法と、流通と、理念と


 純文学でも、SFでも、ミステリでも、ラノベでも、或いは芸術やロック音楽でも構わないが「◯◯とは何か」という議論はとても紛糾しやすい。けれどそういう議論を傍目に覗いていると、そもそも互いの語る定義付けのアプローチからズレているらしいケースを私は度々目撃してきた。

 なので今回私は、議論の前提となるべきアプローチの種類を整理するところから始めたいと思う。

 例えばThe Rolling Stonesを聴いて、これは演歌だ、とは思わないだろう。ロックにはロックの「型」があるし、一方で演歌には演歌の「型」がある。作詞・作曲・演奏の傾向が全然違うのだから別のものに聴こえる。これはごく当たり前のことで、例えば純文学と大衆文学だって、必要な創作技術の傾向からして大きな差異があるはずなのだ。このように方法的な差異からジャンルを定義付けようというのが最も基本的なアプローチだろう。

 しかし「型」というのは揺らぎやすいものだ。どんどんと例外が増えていくし、他の「型」と影響し合って輪郭が曖昧になっていったりもする。けれどそういう揺らぎは商売するうえでは面倒なので、例えば発売されているレーベルなどで大雑把にジャンルを括ってしまう場合がある。特に典型的なのがライトノベルだろう。純文学もほぼ大手の純文学雑誌に掲載されたか否かで決まる。いわば流通上の都合からジャンルを決めてしまうアプローチである。

 そして最も厄介極まりないのが、方法的な差異でも流通上の都合でもなく、漠然とした抽象的な理念からジャンルを定義付けようとするアプローチだ。ロックは反抗的であるべきだ。芸術は爆発だ。純文学は己の魂を晒け出さなくではならない……最早境界線を喪失した勢いだけの定義なのだけど、一方で、この定義付けが最も人口に膾炙しやすいという事実もある。技術的な差異なんて難しくて分かんない。むしろ抽象的な理念で適当に纏めてくれたほうが分かりやすい。理念による定義付けは、難解な純文学や芸術すらもあっさり「分かりやすく」することが出来る。

 どのアプローチにも各々の正当性はあるし、各々の定義付けが相互に影響し合うことでジャンルが成熟していくとも言える。しかし各々が間違っていないがために、互いのアプローチが擦れ違ってしまったときに大いに議論が紛糾してしまう。私達が語りたいのは、方法なのか。流通なのか。理念なのか。自分の位置を自覚するところから始めよう。


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