メモ(tome)

何から書けばいいのか、自分がどこまで許容できるか、それ次第なのだろうけど、赤裸々に書くことは不特定多数の多くの人間が見るこれには相応しくないと思う。だったら、自分のメモ帳アプリなり、人の目につかないところに書くのがおそらく適切だという話になるのだが、それはそれで自分のコアを拡散させて目につかない(つきにくい)ところに埋没させるようなものだと個人的に考えるので、noteにメモがてら書くことにしたい。
自分は未だに、理不尽な当たり散らし方(埒のあかないごり押しクレーム、暴言、威圧的な態度)をされると、自然と涙が出るらしい。なぜ、涙が出るのか未だに自分でも分からない。個人的に悔し涙と抵抗の涙ぐらいだという認識でいるのだが、果たしてどうなのやら。正直言ってしまえば、男なんだから泣いてはいけないと心のどこかで思う節もある(「らしさ」についての話はとりあえずおいておく)。だけれども、涙は自然に溢れてくるのである。摩可不思議である。
対処法として一番簡単なことは、おそらく、なるべくそのような事態になることを避けることだろう。しかし、仕事、とりわけ接客営業で、となると、このような事態が発生してしまえば、避けようはないのだ。威圧的な態度を取る方々から逃げるのは、ほぼ戦争時の敵前逃亡と同じだ。ただでさえ、燃えているところに追い油などをするようなものと大して変わらない。それゆえ、自分は自分を碇シンジのように追い込んでしまう。「逃げちゃ駄目だ」などと連呼するように鼓舞をしながら。
自分の過去を振り返ってみると、このような理不尽な当たり散らし方をされたのは、父親によくされた記憶がある。予め、誤解がないように言っておくが、「虐待」だとは自分自身思っていない。よく些細な失敗で怒られた記憶がある、「なぜできないんだ」と。そして泣く。そうすると、父親は言う。「なぜ泣くのか、泣く暇があったらやれるようにしろ」と。正直言ってしまえば、失敗の原因に寄り添いもしない教育であり、幼少の頃の私は「なぜできないのか」分からなかったし、今だに幼少の頃と似たような課題で苦戦することは多々あるし、類似した仕事業務だけは未だに出来る自信はない。よくも悪くも、幼少の頃は母親にはこのようなことがある度に助け船を出してもらってその場を丸くおさめてもらっていたように思う。丸く収まるまでの間、私はひたすら泣いていただけだった。
こんなことをつらつらと書いてきたわけだが、精神科医あたりが見たらなんていうだろうか。PTSDだとでも言うのだろうか。自分で勝手に診断するのはやめておいた方がいいとは思う。仮にPTSDだったと仮定して、正直言ってしまえば、就職活動の際の面接でも、想像するだけでより億劫になるし、圧迫面接なんて言われるものであろうならば、おそらく耐えきれずに私は泣くことになるのだろう。
こんな摩訶不思議な現象を「個性」の一言で一蹴できるのならば、生きやすいことこの上ない。しかしながら、私が生きている現実社会はそのように成立していない。私にとって、とにかくこの世界は生きにくい。

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